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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(36)十字架の上から全能の神を見つめる

ローマ4:19-25

19 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。

20 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、

21 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。

22 だから、彼は義と認められたのである。

23 しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、

24 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。

25 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。  

  アブラハムとサラは、たとえそばめハガルから生れたイシマエルが跡継ぎになったとしても、受け入れていたであろう。他にはどう考えても選択肢がなかったからである。しかし主なる神が「イシマエルではなくサラから生れる子が跡継ぎになる」と約束したがゆえ、そのあり得ない約束の成就を待っていたのである。

創世記17:15-21

15 神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。

16 わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。
17 アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。

18 そしてアブラハムは神に言った、「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」。

19 神は言われた、「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。

20 またイシマエルについてはあなたの願いを聞いた。わたしは彼を祝福して多くの子孫を得させ、大いにそれを増すであろう。彼は十二人の君たちを生むであろう。わたしは彼を大いなる国民としよう。

21 しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」。

 アブラハムとサラの方から主なる神に対して、「主よ、私たちの子孫を地の塵、天の星のように増やしてください」と懇願したわけではなかった。だからこそ、イシマエルが生れてから約十四年間、アブラハムは何度も「私が強要したわけでない。主自身が約束したのだ。それなのに、なぜ主は約束を果たしてくれないのだろう」とつぶやく誘惑にも駆られたのではないだろうか。

 また自分の完全な無力を自覚するのは、それだけでも厳しいが、周りがその無力な自分を助けてくれない、または助けたくても助けられないことを認めるのは、さらに辛いことである。

彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、

 「認める」と和訳されている「κατανοέω katanoeō」は、直義的に「十分に観察し、~であることを認める」というニュアンスがある。アブラハムは、十四年の間、自分とサラの無力を何度も思い知らされていたのである。

なお彼の信仰は弱らなかった。

 なぜ、彼の信仰は弱らなかったのだろうか。なぜ不信仰に蝕まれず、逆に信仰によって強められることができたのだろうか。それはアブラハムの視線が、自分と周囲の無力さを完全に認めることを通して、神だけに向けらていたからである。以下の三つの表現が、そのことを完璧に表している。

  • 神の約束
  • 栄光を神に帰し
  • 神はその約束されたことを、また成就することができる

 つまり、「自分の願望や計画」ではなく「神の約束」を見、「自分の栄光や誉」ではなく「神の栄光」を崇め、「自分の能力や可能性」ではなく「神の全能と忠実さ」を凝視していたのである。

だから、彼は義と認められたのである。

 無と闇の中に横たわる私たちの心が、アブラハムのように神を見上げるとき、神は私たちの中に与えられた、目には見えない信仰を見出し、それを「義」として認めてくださる。アブラハムと私たちの大きな違いは、アブラハムはその時にはまだ実現していなかったことを信じて待っていたが、私たちは二千年前に起きた十字架の死と復活の証しを信じていることである。