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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

牧師・長老・監督の適性(2)ひとりの妻の夫

聖書による検証

Ⅰテモテ3:2

さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、 

テトス1:6

長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。 

Ⅰテモテ3:12

執事はひとりの妻の夫であって、子供と自分の家とをよく治める者でなければならない。

 「ひとりの妻の夫」とは、実に不思議な表現ではないだろうか。岩波委員会訳は「唯一人の女の夫であり」と訳している。「夫」とあるから結婚している男性を意味するが、それだったらシンプルに「結婚していて」とも書けたはずである。勿論、ここでは「ひとりの夫の妻」とは書いていないので、教会における女性指導者は、牧師の適性から除外されている。

 それでは「μιᾶς γυναικὸς ἄνδρα 一人の妻の夫」とは、何を意味するのだろうか。「一夫多妻制」に対置する表現と解釈する者もいるようだが、当時にギリシャやローマの文化圏において「一夫多妻制」は特殊な例を除くと一般的ではなかったことを考えると、キリスト教会の指導者たる立場の人間に対する適性として持ち出すのは、不自然ではある。また使徒パウロが同類の表現を女性に対して用いているが、「多夫一妻制」は当時にはあり得ないことだったので、この表現を「同時に配偶者を複数もつ結婚の在り方」と関連づけるのは、使徒パウロの真意ではないと思う。

Ⅰテモテ5:9

9 やもめとして登録さるべき者は、六十歳以下のものではなくて、ひとりの夫の妻であった者

 この表現の真意を理解するためにも、聖書が啓示している「結婚」について簡単に説明してみたい。多種多様の人々が集まる地域教会の指導者に求められている在り方は、その聖書が啓示している「結婚」を体現しているものでなければいけないはずだからである、

 結婚制度は、神の人間創造の時からすでに人間に与えられていたものである。

創世記2:18-24

18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。 

21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。

22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 

 アダムに「ふさわしい助け手」(単数形)を、神自身が「ひとりの女」として造り、男に与えた。それで人(単数形)は、妻(単数形)と結び合い、一体(直訳「一つの肉」単数形)となるのである。つまり神の人間創造において、一人の男と一人の女が結婚し、お互いを補うように一つとなることが本来の結婚の在り方であることがわかる。

 旧約聖書には、カインの子孫レメクや、ヤコブ、ダビデ王、ソロモン王のように複数の妻を持ったケースや、アブラハムのように正妻のほかにそばめを連れていたケースもあるが、それは本来の神の御心ではなかった。

 御子イエス・キリストも、結婚し「一つの肉」となった男と女のつながりは、神の前で解消することができないものとし、人間が自分の選択によってそれを引き離すのは神の御心でないことを啓示している。さらに、もし男が「不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる」場合、その男は姦淫の罪を犯すことになる、と語っている。

マタイ19:3-9

3 さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。 

4 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、

5 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。

6 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。

7 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。

8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった

9 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

 この「不品行のゆえ」という理由に関しても、様々な解釈があるが、使徒パウロが未婚の男や女が性的関係をもつ不品行の罪に陥らないためにも結婚しなさい、と命じていることから、ちょうど婚約者だったヨセフがマリアの妊娠に気づいたときに「離縁しよう(ἀπολύω apoluō)と決心した」というエピソードのような婚約段階のことを示しているだと私は思う。もし正式に結婚している場合、妻が他の男性と肉体関係を持てば、それは「不品行」ではなく、「姦淫」と書かれるはずだからである。

Ⅰコリント7:2

しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。

マタイ1:18-19

18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。 

19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。 

 使徒パウロも聖霊の啓示によって、主イエス・キリストと同じ教えを繰り返している。

ローマ7:1-3

1 それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。

2 すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。

3 であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。

 聖書の教えは明確である。神の前で結婚した男と女のつながりは解消されることはなく、神は離婚を望んでいない。そしてもし個人の選択によって離婚した者が、元配偶者が生きているうちに再婚するなら、神の前でその「つながり」は無効となっていない故、それは元配偶者に対して姦淫を犯しているとみなされるのである。また配偶者が生きているのに離婚した者と結婚するものは、姦淫を犯すことになる。

マルコ10:11-12

11 そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。 

12 また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

 以下の聖句も明確である。もしすでに離婚しているなら、選択肢は「結婚しないでいる」か「配偶者と和解する」の二つである。別の人と再婚するという選択肢はない。

Ⅰコリント7:10-16

10 更に、結婚している者たちに命じる。命じるのは、わたしではなく主であるが、妻は夫から別れてはいけない。

11 (しかし、万一別れているなら、結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい)。また夫も妻と離婚してはならない。

12 そのほかの人々に言う。これを言うのは、主ではなく、わたしである。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。

13 また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。

14 なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。

15 しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのである。

16 なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。 

 マッカーサー師は、「しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない」という箇所を、不信者の配偶者が離れていくのなら、「束縛されていない」つまり「結婚の契約は無効になるから再婚できる」と解釈しているが、それは要するに離婚であり、その場合、11節にある「結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい」という教えが適用されるのは明らかである。

 聖書は配偶者と死別した場合のみ、再婚は認めている。それは肉体の死によって、「一つの肉」となっていった繋がりが切れるからである。ただその場合の再婚は、「それは主にある者とに限る」つまり信者同士でなければいけない、と限定されている。

Ⅰコリント7:39

妻は夫が生きている間は、その夫につながれている。夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえないが、それは主にある者とに限る。

 勿論、この記事の目的は個人の選択や複雑な事情に対して、聖書を根拠に裁くというものでは決してない。地域教会の責任者としての適性の一つである「結婚」について考察しているのである。

 以上のような聖書の結婚に関する基本的な教えを根拠にすると、牧師・長老・監督は「一人の妻の夫」でなければいけない、という条件は、以下のことを意味していると解釈できる。

  • 牧師・長老・監督は、男性でなければならない。地域教会を導き、治めるということは、時に信徒に対して権威の行使を必要とする。使徒パウロは女性が男性の上に立ち、教えたり権威を用いることを禁じている。それゆえ、女性牧師は聖書的な実践ではない。

Ⅰテモテ2:12

女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。 

  • 牧師・長老・監督は、結婚していなければならない。これは独身の人が牧師・長老・監督にはなれない、というわけではないのかもしれないが、現実的な問題として、地域教会における様々な家庭の複雑な問題(理論だけではとても対応できない夫婦間のデリケートな問題、配偶者の親との関係など)を、未婚の男性がどうやって相談や助言ができるだろうか。子供を育てた経験がない場合も同様である。例えば未婚の牧師が「キリストが教会を愛したように、あなたの妻を愛しなさい」と既婚者信徒に勧めたことを想像してみてほしい。誰も口に出しては言わないだろうが、心の中では「牧師は結婚していないから、簡単に言えるんだよ」と思うのではないだろうか。逆に聖書が教えているように、一人の妻をもち、実際にその妻を愛し、家庭をよく治めている男性が「あなたの妻を愛しなさい」と言うならば、信徒はその牧師の実践を知っているがゆえに、心を開いてアドバイスを求めるだろう。個人的には未婚男性には日曜学校教師や伝道師や宣教師など、主に仕える領域はいくらでもあると思っている。
  • 牧師・長老・監督は、離婚や再婚(元配偶者が生きている場合)経験者ではならない。上記したように、聖書が結婚について啓示している教えに反することをしているのに、どうやって地域教会を正しい方向に導くことができるだろうか。
  • 地域教会の責任者の独身制度は聖書的根拠をもたない。カトリック教会は、献身者が一生独身であることを誓わなければいけないが、それは聖書的教えでないどころか、惑わす霊と悪霊の教えであると使徒パウロは警告している。結婚は、人間を創造した神自身が定めたものである。

Ⅰテモテ4:1-5

1 しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。

2 それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。

3 これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。

4 神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。

5 それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである。

  • 配偶者と死別した場合のみ、再婚している男性でも牧師・長老・監督になることができる。二世紀のテルトゥリアヌスやアテネのアテナゴラスは、再婚に否定的な意見を書き残している。しかしすでに引用したように、聖書は配偶者と死別した場合の再婚を認めているので、ギリシャ正教のように「再婚者は牧師・長老・監督にはなれない」というのは、聖書的根拠を持たないように思える。おそらく使徒パウロの「妻は夫が生きている間は、その夫につながれている。夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえないが、それは主にある者とに限る。しかし、わたしの意見では、そのままでいたなら、もっと幸福である。わたしも神の霊を受けていると思う。」(Ⅰコリント7:39-40) という言葉を拡大解釈したものではないかと思う。
  • 「一人の妻の夫」という表現が暗示している霊的な要素、つまり「神に与えら、自分と一つとなった妻に対する忠誠」が、何よりも主イエス・キリストによって贖われ、愛されている地域教会の牧会者として最も重要な適性である

エペソ5:25-33

25 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。

26 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。

28 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。

29 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。

30 わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。

31 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。

32 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。

33 いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。

 以上、牧師・長老・監督の適性の一つであり、一番最初の書かれている「ひとりの妻の夫」という資質について考察してみた。勿論、異なる意見もあると思うが、私には聖書の啓示の基本に対して一貫性をもつ解釈であると思える。

 

(3)へ続く