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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(33)律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。

ローマ4:14-17

14 もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。

15 いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。

16 このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、

17 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。 

 神がモーセを通してイスラエルの民に与えた言葉【תּורה】を、【νόμος】というギリシャ語に訳そうが、【トーラー】とヘブライ語読みをカタカナ表記で書こうが、【律法】と和訳して書こうが、それは本質的なことではない。ヘブライ語読みをカタカナで書けば神に義と認められ、律法と書けば罪とされるわけではない。その神の言葉の呼称ではなく、内容自体がそのアイデンティティーを定義し、それが読む者に何を求めているかが重要なのである。

律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。

  使徒パウロの言葉の解説は、彼自身が七章において書いている。

ローマ7:7-14

7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。

9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、

10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。

11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。

12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。

 使徒パウロははっきりと「律法は罪ではない」「いのちに導くべき戒め」「律法そのものは聖なるもの」「戒めも聖であって、正しく、善なるものである」「善なる戒めが死となったのではない」「律法は霊的なものである」と定義している。

 その聖なる戒めは、私たちに何が聖であり、何が聖でないかを知らせ、私たちの隠れている罪を明らかにする。「むさぼるな」という戒めによって、むさぼることが神の御心に反することを知った者は、自分がむさぼらないように注意するようになるが、それは心の中に潜在していたあらゆる「むさぼり」を覚醒させ、その者を「むさぼりの罪」に定め、「神の御心に反する罪びと」と断罪するのである。

 そしてこのプロセスの中で、さまざまな「怒り」が生じる。それは「自分が戒めを守れないことに対する怒り」であり、「戒めを守らない人間に対する神の怒り」(人間的怒りと混同してはならない。それは悪に対する正義の在り方そのものである)であり、「戒めを守れない自分に対する神の怒りに反発する人間の怒り」であり、「自分は戒めを守っていると思い込んでいる者が同じ戒めを守っていない者を裁くときの怒り」である。そこには平安も、信頼も、調和も、愛の関係も存在しない。

もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。

 例えば上述の「むさぼるな」という戒めをもとに、「むさぼらなかった者には祝福を与える」「むさぼった者には災いを与える」という律法に従って生きるとしたら、使徒パウロ自身の告白でわかるように、誰もその祝福を受けることはできない。ゆえに律法によっては人は誰も祝福の受け継ぐものとはなりえず、その祝福さえ空しいものである。

 だからすべては神の恵みに対する信仰によるのである。主なる神は、アブラハムに「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」と約束した。アブラハムはその「数えてみなさい」という言葉を約束の成就の条件とは取らなかった。主なる神自身、「数えてみなさい。正確に数えられたら、あなたの子孫を同じ数だけ増やしてあげよう」とは言わなかった。アブラハムは主をただ信じ、主はその信仰を彼の義と認めたのである。

 

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