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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

信仰者の中にあって語る神の霊(2)

マタイ10:17-20

17 人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。

18 またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。

19 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。

20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。 

  マタイ10章の「十二弟子の宣教命令」について考察しているが、冒頭の聖句の詳細も、この宣教命令の文脈が一義的にイスラエルを対象にしており、主イエス・キリストの復活後に命じられた「全世界に対する宣教命令」とは異なる、過渡的なものであることを証明している。

 例えば「衆議所 συνέδριον sunedrion」は、ユダヤの最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織であったサンヘドリンのことであり、「最高法院」などとも和訳されている。また「会堂 συναγωγή sunagōgē」は、シナゴーグのことである。

 しかし主イエスが「わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである」と言うとき、「彼ら」は「長官たちや王たち」のことを示し、その「彼ら」が「異邦人」と区別されていることから、「長官たちや王たち」とは必然的にユダヤ民族に属する人々のことを指していることになる。つまり「ユダヤ人の長官たちや王たち」と「異邦人」との前で弟子たちが証することになる、使徒時代のことも暗示しているのだろう。

 キリストの復活と聖霊の降臨によって、全世界に対する宣教のためのキリストの証人として任命されたキリスト者にとって、共通する重要な啓示は、「語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である」という言葉である。ここでは父なる神の霊となっているが、それはまだキリストが栄光を受けておらず、弟子たちが聖霊のバプテスマを受けていなかったからである。

ヨハネ7:37-39

37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。 

 しかしキリストが復活し、父なる神から栄光を受けた今、信じる者の中で語るのは聖霊である。

ヨハネ15:26

わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。

ヨハネ16:13-14

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

使徒5:32

わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。 

1ヨハネ5:6

このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。 

  余談になるが、ペンテコステ派教会において「彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである」という聖句を引用して、説教や聖書研究会などのために前もってテーマを決めたり、準備のための聖書研究をほとんどしないで、さらに説教のときにメモを用意したりすることを「聖霊の働きを制限する」といって否定する人々が少なからずいた。聴衆に一つの詩篇を選ばせ、それをその場で読んでコメントする、という方法を使っていた牧師もいた。それも一つの信仰の顕れかもしれないが、私は少なくともこの聖句を引用するのは正しいことだとは思わない。

 まず第一に、礼拝や聖書研究会において兄弟姉妹の前に立って聖書から解き明かすのと、福音に反発する人々に引きずり出され、鞭うたれ、弁明を強要されているのでは、状況が全く異なるからである。自由を奪われ、望みもしないところに連れていかれ、罵り叫ぶ人々の前で、「済みません。用意しておいた原稿を家に置いてきてしまったので、思い出しながら書き出すので10分ほど時間ください」などと悠長なことは言っていられないはずない。

 しかし教会や家庭礼拝においては、熱心に祈り、テーマを決めたり、十分な準備の中で聖霊の語ることを遜って聴くことは本人にとっても大切であり、不可欠なことである。上記のようなことを主張する人々の説教は、回を重ねるごとに偏る傾向にあり、繰り返しも多く、内容的にもあまり深くないことが少なくないからである。勿論、神学など勉強したことなど全くない老牧師が、聖句を読んでコメントを加えるという極めてシンプルな説教で、燃える炎のような言葉を語るのを聴いたことがあるが、だからと言って神学的準備が全く必要ないと主張するのは極論だろう。また特殊な聖霊の導きによって、下準備した内容を横に置いて全く異なるテーマになるケースもあるが、祈りの中で前もって示されたテーマを話すうちに、予期していなかった要素が突然示され、その場の状況の必要を満たすというのが、教会における説教などではバランスのとれたアプローチではないかと思う。この点は、おそらくそれぞれ意見が分かれるところだろう。

 誰に会うか、目の前にいる人がどのような人がわからないことがほとんどの個人伝道・路傍伝道においては、まさに「言うべきことは、その時に授けられる」というアプローチがすべてなので、よりダイレクトでエキサイティングな聖霊の導きを経験することが多い。

 

(3)へ続く