an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖霊のバプテスマに関する個人的証しと省察(5)

  • 天の父から与えられる「良い贈り物」の約束

ルカ11:13

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。

参照:

ヤコブ1:17

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。

  • サマリヤの女に対する伝道における主イエス・キリストの約束

ヨハネ4:10

10 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。

参照:

ヨハネ7:37-39

37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。 

  •  エルサレムにおける最初の聖霊のバプテスマの顕現

使徒2:38

すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。

  • サマリヤの町における聖霊のバプテスマの顕現

使徒8:20

そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。

  • カイサリヤの百卒長の家における聖霊のバプテスマの顕現

使徒10:45

割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。 

使徒11:15-16

15 そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。 

16 その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。

17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。 

  上に引用した聖句は、聖霊のバプテスマを「神の賜物」「聖霊の賜物」として直接的もしくは隠喩的に啓示している聖句である。新約聖書には、「魂の救い」(エペソ2:8)や、「永遠の命」(ローマ6:23)、「聖霊」自身(Ⅰテサロニケ4:8)を「神の賜物」であるとも啓示しているが、上述の聖句は特に「聖霊のバプテスマ」が「父なる神に約束された賜物」であると、文脈において明確に示している。

 確かに聖霊のバプテスマは、天の父から約束されている「贈り物」「賜物」である。それは私たちの熱心な祈りの「報酬」ではない。汗水垂らして奉仕した「対価」でもない。信仰による義認、つまり罪の赦しと同じように、神に一方的な恵みによる「贈り物」である。

 私は自分の経験について書く前に、この決定的な真理をあえて明確に伝えておきたいと思う。なぜなら、誰も私が自分自身のことを誇っているなどと誤解しないためである。自分の無力と卑しさの中に死んでいた私に、主なる神はまさしく恵みとして、約束の聖霊のバプテスマを授けてくださったのである。

 だから聖霊のバプテスマのしるしとしての異言の祈りも、私が全く理解できない、また私の理性から出てきた言葉でない、ほとばしり、とめどもなく湧き出る賛美であった。元々、私は非常に内省的な人間だから、自分にとっては外国人であるイタリア人が二百人以上いる集まりの中で、声を上げたり、涙を流したりすることはまずあり得ないことであった。しかし聖霊のバプテスマを受けてからは、内側から噴き出す炎のような衝動があるとき、それを抑えることは難しく、それに委ねると異言や預言の賜物によって教会の徳を高める働きになるのを経験し、また反対に自分の考えによって抑えてしまうと、より繊細になった良心の呵責を強く感じるようになった。それと同時に、導きがないまま感情的な衝動から出てくる心の働きと、聖霊からくる心の働きを経験によって見分けることが容易くなった。勿論、現在に至るまで多くの間違い・勘違いなどを犯すが、叱責や修正を含めて、何が聖霊から来るものか判断する光を敏感に受け止められるように日々造りかえられているという実感がある。

 また導きにおいても、やはり人間的な知恵や知識ではありえない、まさに超自然的なものが与えられるようになった。例えば、町を歩いて突然、内なる声がしてある特定の場所を指定され、実際にその場所へ行って待っていると、正面から来た男性に話しかけるように命じられ、話してみると仕事でボローニャに来ていたビジネスマンで、霊的に大変飢え渇いていた人であった、といったタイプの導きである。彼はイタリアの街角で日本人に話しかけられ、しかも福音の証しを聞いたことにとても驚いていたが、結局その出会いが主なる神の導きによるものだということを強く実感していた。共に祈った後、彼は自分の町に戻ったのでその後の経過はわからないが、彼の救いの計画の一歩となったと今でも確信している。

 またある早朝、自分の部屋で祈っていると、「今すぐ着替えて病院へいけ」という導きがあった。実はその病院には知人の女性が癌の末期状態で入院していて、私が数週間、お見舞いに行って証しをしているうちに、彼女はベットの上で救いの体験をしていたのである。まだ暗いボローニャの町を走り、病室に入ってみると、そこには誰もおらず、彼女が目を閉じて苦しそうに息をしていた。そこで彼女の手を取り、私は祈りの心で讃美歌を歌い始めた。そして歌い終わらない前に、彼女は眼を開き、顔をあげて天を見て、微笑むように息を引き取った。私が部屋に入ってから五分も経っていなかった。まるで私が讃美歌を歌うのを待っていたかのようだった。そしてそれは私のためであったのかもしれない、と今は思う。

 看護婦に亡くなったことを知らせてからしばらくすると、彼女が生前、交際関係にあった男性が慌てて病室に入ってきた。彼は私が彼女に福音を語ることを快く思っていなかった。彼は最後の夜、同じ病室で付き添っていたが、朝食のためにちょうど病室から離れていたということであった。もし彼が病室にいたら、私は彼女の手を取って讃美歌を歌うことを躊躇っていたと思う。聖霊はまさに絶妙なタイミングで導いてくださったのである。そして彼女は亡くなる前に自分の妹に遺言を残していて、身内だけの葬儀をする際に、私に聖書からのメッセージをするように遺志を伝えていた。交際関係にあった男性にはそのことで激しく憎まれたが(実は彼女が救われ劇的に変わったことで、自分が望んでいた物が手に入らなくなったことも大きな理由であったことは、後になって知ったのだが)、主はその葬儀の場で十字架の福音による復活の希望を語る機会を与えてくださった。

 このような聖霊の導きの証は他にも数多くあり、書き始めたら何ページにもなってしまうだろう。ただこれらの事を選んで書いたのは、その導きが決して人間的努力や判断能力によらず、全てを知っておられ、時間を超えて全てを導いておられる主なる神が、「聖霊の賜物」を用いて、一人ひとりの魂の救いのために働いておられることを証しするためである。

 また、このような特殊な導きは、祈れば必ず与えられるというよりは、やはり「聖霊の贈り物」として、予測できない形で与えられることも経験で学んだ。というのは、初めの頃は、何か特別で心がドキドキするような導きが常時なければいけないと、勘違いし、妙に力んでいた時期があったからである。経験を通して、必ずしも主なる神は目の前の閉じられた扉を奇蹟的に開くわけではなく、そのような機会もあれば、また閉じられた扉の前で私たちの横にいる、福音に飢え渇いている魂に気づき、彼らの隣人となり、一緒に主なる神の憐れみを信仰によって待ち望むことも、聖霊の賜物なのだということも学んだ。

 そして何よりも一番大きな体験は、聖霊のバプテスマを受けることによって、「キリストの十字架の死と復活の霊の法則」つまり「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則」をさらに強く体験したことである。聖霊のバプテスマを受けてから、本当に様々な予測できない苦難や、言葉にできない(主なる神の前でしか公言してはいけないことがあることを近年学んだ)状況を通ってきたが、その度に私はそれまでより深く「キリストの十字架の死」を知り、また同時に働く「キリストの復活の命の力」の素晴らしさを体験した。そう、聖霊の満たしの本質は、まさにこれらの二つの力が働き続け、不変でありながら絶えず革新し続ける「永遠のいのち」であり、私の「主イエス・キリスト」その方である。

コロサイ2:9-10

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、

10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。

 だからペンテコステ派のごく一部の人々のように、聖霊の力や特別な賜物だけに注目するのではなく、聖霊に満ち満ちている主イエス・キリストのうちに憩い、「キリストの十字架の死」と「キリストの復活の命」の働きに全てを委ねよう。そうすれば、私たちの聖霊のバプテスマも満たしも、教会の建物の内側で体験する宗教体験という限定された枠をはるかに超えて、聖霊の賜物と聖霊の実が同時に顕現する、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則」にある生として、創りかえられるのである。

Ⅱコリント4:7-12

7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。

9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。

10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。

11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

12 こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。

 当初、聖霊の賜物の一部である「異言の賜物」と「異言の解き明かしの賜物」について、厳密な検証を書こうと思っていたが、とりあえずこのシリーズ記事は終え、主が望むなら期を改めて記事にすることにしたい。