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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖霊のバプテスマに関する個人的証しと省察(4)

 聖霊のバプテスマに関して、あまり重視されていないが非常に重要な点がある。聖霊のバプテスマと、キリストの体である教会との関係である。実際、聖霊のバプテスマは個人的な経験以上のものであり、教会のいのちを革新する「新陳代謝」的働きをする。ゆえに「個人的・内的経験」である聖霊のバプテスマは、共同体における「確認と共有」のプロセスがあるべきである。

 例えば、私は多くの信仰者が数人の家庭祈祷会や全く一人の祈りの中で聖霊のバプテスマを受けた証を知っている。そして彼らは地域教会の礼拝において、それを兄弟姉妹の前で証し、礼拝の祈りの中でその「個人的・内的経験」が神から来たものかどうか、教会が「確認」し、その「個人的・内的経験」を共同体の中で共有するのである。

 私の場合、地域教会の礼拝の中で聖霊のバプテスマを受けたので、兄弟姉妹はそれを見聞きしたのだが、それでも次の礼拝において、長老の一人が私に按手し(頭の上に手を置くこと)、私が再び異言の祈りをするかを確認した。またその異言を解釈する賜物によって、教会全体が私の個人的・内的経験を共有したのである。

 それは以下の聖句を基にした実践である。

使徒8:14-17

14 エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。

15 ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。

16 それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。

17 そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。 

使徒19:6

そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。 

 残念ながら、このような「キリストの体における確認と共有」というプロセスは、重要視されなくなってしまった。だからその「個人的経験」の純粋性が疑わしくても、牧師や長老はそれを明言し、純粋な経験をさらに探すことを励ましたりしないので、人為的な経験や感情的経験であったとしても「お墨付き」だと勘違いしてしまうのである。これは新生経験を受けていない求道者や信徒の子供に、洗礼を授け、彼らが救われていると勘違いさせてしまう行為と同じように、非常に多くの問題を起こす。

 あまり一般論化したくないが、今では夏のキャンプや全国集会などで「聖霊のバプテスマを受け、異言を話した」と自分達の教会へ戻って証する若いクリスチャンが、兄弟姉妹と公園や街角へ福音伝道のために進んで出て行くことはほとんどない。たとえそれを始めても、「誰も救われない」といってすぐ一か月も経たないうちにあきらめてしまう。

 現代の「聖霊のバプテスマ」は、「洗礼を受けるため」「人に認められるため」「地域教会で奉仕のポストを得るため」の「認定証」のようなものに扱われている。しかもそのような「聖霊のバプテスマ」が、聖書に啓示されている「聖霊のバプテスマ」なのだろうか、と問いかけることはタブーとなってしまった。

 この問題は、「主イエス・キリストは、如何なる目的で聖霊のバプテスマを授けるのか」という「聖霊のバプテスマの目的」に関わる問題である。もしそれが、教会内において一人の信仰者が霊的か否かを判断する基準だけになってしまっているのなら、また「聖霊のバプテスマを受けた」という証し自体で終わってしまっているならば、私たちは主との交わりを真剣に見直す必要があるだろう。

 

 次回は、聖霊のバプテスマが実際に何を私にもたらしたかを記事にしてみたい。

 

(5)へ続く