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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖霊のバプテスマに関する個人的証しと省察(3)

 私が聖霊のバプテスマを受けることを必死で祈り求めていた時期は、使徒パウロの二つの告白「わたしは自分のしていることが、わからない。」「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」(ローマ7:15,24)によって、表現できる。私は熱心に求めているつもりだったし、実際に真剣に求めていたが、それでもその思いは恐ろしく空回りし、自分の嘘っぽさばかりが重くのしかかっていた。素直な心の持ち主は、割とすんなり聖霊のバプテスマを受けるのかもしれないが、私の心の中には自分でもよくわからない強い力が働いていて、それが私を文字通り床の上にひれ伏させ、私を消耗させていた。時々の勝利と多くの敗北、喜びと失望を繰り返し、いい具合に進んでいると思ったら、直後に元のところへ戻っている、というどうしようもない状態を繰り返す自分にうんざりし、疲れ切っていた。

 そして礼拝の祈りの中で「もうだめです。私はもう死んでます。」と泣きながら叫んだ。祈りと呼べるようなものではなかったと思う。だがそのとき、高く上げられた十字架の主イエスから、圧倒的な力が一瞬で下ったのだ。まさに頭の上から鋭い流れが私の体を突き抜けるように走り、私の口から次々と知らない言葉が飛び出し、時折主を賛美する言葉を何度も叫んでいた。どのくらいの時間が経ったかは後で知ったが、私にとってはまさに時空を超え、いのちに満ち満ちた時であった。

 私はここでは敢えて教義的断定はしないが、それでも証できることは、聖霊のバプテスマによって満たされた体から出てくるものは、まさに霊によるピュアな賛美であり、それは私たちが知っている言語表現によって限定されるものでは決してない。それは、頭からではなく、のどからでもなく、人間の存在の最も深いところ、霊の領域から直接溢れ出る真理の賛美であり、ロゴス(神の神聖な知恵、知識、理性など)である。

 勿論、そのときは今のような言葉で説明することはできなかったし、言葉で説明するのが虚しく感じるほど、命に溢れ、リアルで、清明であった。主イエス・キリストは、信じる者に与えられる聖霊のバプテスマを「川となって流れ出る生ける水」というシンボルを使って語ったが、まさにこれ以上的確な表現はないと思う。「通りがかりの人に踏まれて濁ってしまう水たまり」ではないし、また「蛇口からポトポト漏れる水」でもない。「腹から溢れ流れ出る川」である。

ヨハネ7:37-39

37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 

39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。

 そしてここには非常に重要なことが啓示されている。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。」 つまり聖霊が下り、聖霊のバプテスマが与えられるのは、「イエスが栄光を受けること」が絶対条件だったことである。実際、主イエスは地上の宣教において弟子たちに悪霊を追い出す力や奇蹟を行う力を特別に与え、彼らを三年間教え続けたが、弟子たちを聖霊で満たしたのは、御子イエスが父なる神に託された務めを完全に果たし、父なる神から栄光を受けた十字架の死と復活の後であった。

ヨハネ12:27-33

27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。

28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。

29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。

30 イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。

31 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。

32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。

33 イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。

 復活した主イエスは弟子たちに、約束された聖霊のバプテスマを受けるまで「都に留まっていなさい」と命令したが、それはエルサレムという町の物理的場所が重要だったというよりも、その場所が「メシアが十字架に架けられ、三日後に復活した、神の預言が完璧に成就した場所」だったからである。

ルカ24:49

見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

 だから、聖霊のバプテスマを祈り求めている人は、自分の罪のために十字架の上で命を捧げ、葬られ、死から復活し、父なる神の右に引き上げられた、その霊的場所において信頼して待ち、祈るべきである。

 特別な場所に行ったり、特別な集会に参加しなければいけない根拠は全くない。「偉大な使徒、伝道師、宣教師、牧師」を探して、祈ってもらう必要も全くない。洗礼者ヨハネは御子に関して証するにあたって、「世の罪を取り除く神の子羊」と証したと同時に、「御霊が下ってとどまった人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである」と証した。聖霊のバプテスマを授ける方は、私たちの罪を取り除いてくださった神の子羊、御子イエス・キリスト、その方のみである。彼こそ、そして彼のみが、父なる神から愛され、天上の御座において私たちを聖霊によって満たしてくださる方である。

マルコ9:2-8

2 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、

3 その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。

4 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。

5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。

6 そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。

7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。

8 彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。 

エペソ1:22-23(新改訳)

22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 勿論、一人で祈り求めることは大事であるが、主イエス自身の約束を基に、十字架の罪の清めの力を信じ、志を共有できる2,3人の兄弟姉妹と集い、臨在を約束されている栄光の主の御前で、主の約束の成就を心から信頼し、祈り求めるのが聖書的であると思う。主なる神は、いつもご自分の約束に真実な方である。

マタイ18:19-20

19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 

20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。 

 

(4)へ続く

 

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