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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「聖書は異邦人のためにではない」という意見の検証

聖書は異邦人のためではない - 聖書とユダヤ人

 予め明記しておくが、私の他の人のブログで主張されているテーマを論証するときは、論者個人に対する批判が目的ではなく、あくまでテーマ自身を対象にしたものである。また私自身の目的も、中世の異端裁判の真似をして、他人を批判することによって自分を正当化するという卑しい目的では決してない。私を義とするのは、あくまで私の主イエス・キリストの十字架の贖い、それのみである。

 今回、それでも上記のブログを引用したのは、テーマ自体とても重要であると判断し、また検証していくうちに聖書に啓示されている異邦人(ユダヤ人以外のすべての民、つまりそこには私たち日本人も含まれている)に対する神の愛に、私自身感動し、共有したいと思ったからである。

 まず第一に明確にしておかなければならない点は、上述のブログ主が何を指して「聖書」と言っているかである。マタイによる福音書に記述されている主イエスの言葉も論拠として引用しているところを見ると、旧約聖書だけのことを考慮しているとは考えにくく、おそらくキリスト教徒によって一般的に受け入れられている旧約聖書・新約聖書を合わせた書物を「聖書」と呼んでいるのだと判断する。ブログ主はカトリック教徒のようなので、所謂、外典もその「聖書」の概念の中に入っている可能性はあるが、ここでは「旧約三十九巻、新約二十七巻、合計六十六巻によって構成された聖書」を対象として検証を進めることする。

 まず旧約聖書、特に「トーラー」の中にある啓示によって検証してみよう。

民数記15:15-16

15 会衆たる者は、あなたがたも、あなたがたのうちに寄留している他国人も、同一の定めに従わなければならない。これは、あなたがたが代々ながく守るべき定めである。他国の人も、主の前には、あなたがたと等しくなければならない。

16 すなわち、あなたがたも、あなたがたのうちに寄留している他国人も、同一の律法、同一のおきてに従わなければならない』」

申命記31:9-13

9 モーセはこの律法を書いて、主の契約の箱をかつぐレビの子孫である祭司およびイスラエルのすべての長老たちに授けた。

10 そしてモーセは彼らに命じて言った、「七年の終りごとに、すなわち、ゆるしの年の定めの時になり、かりいおの祭に、

11 イスラエルのすべての人があなたの神、主の前に出るため、主の選ばれる場所に来るとき、あなたはイスラエルのすべての人の前でこの律法を読んで聞かせなければならない。

12 すなわち男、女、子供およびあなたの町のうちに寄留している他国人など民を集め、彼らにこれを聞かせ、かつ学ばせなければならない。そうすれば彼らはあなたがたの神、主を恐れてこの律法の言葉を、ことごとく守り行うであろう。

13 また彼らの子供たちでこれを知らない者も聞いて、あなたがたの神、主を恐れることを学ぶであろう。あなたがたがヨルダンを渡って行って取る地にながらえる日のあいだ常にそうしなければならない」。

 主なる神は、イスラエルの血統を持たない外国人にも、もし神の民のうちに寄留することを望むのなら、モーセが書き記した律法を読み聞かせ、彼らがそれを学び、主を畏れることを学べるように命じていた。 奴隷としてイスラエルの民に仕えていた外国人も、何かしらの理由で自発的に寄留していた外国人も、イスラエルの民と「同一の律法、同一のおきて」に従わなければならなかったのである。

 それは決して外国人を見下し、服従を強いるためではなく、あくまで主なる神が、エジプトにおいて奴隷であったイスラエルの民を愛し、贖い出したように、イスラエルの民のうちにいた外国人を同じように愛していたからであった。

レビ記19:33-34

33 もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。

34 あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。

 つまり主なる神がイスラエルの民を愛し、律法を通して、彼らをご自身の子として、戒め、祝福を与えようとしていたように、寄留の外国人をも同様に愛し、律法の戒めを通して祝福を与えようと約束していたのである。

 約束の地に入った指導者ヨシュアは、モーセの言葉に従って、祝福と呪いとに関する律法の言葉をことごとく民の前で読んだが、その聴衆の中には寄留の他国人も含まれていた。

ヨシュア8:30-35

30 そしてヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のために一つの祭壇を築いた。

31 これは主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたことにもとづき、モーセの律法の書にしるされているように、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であって、人々はその上で、主に燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。

32 その所で、ヨシュアはまたモーセの書きしるした律法を、イスラエルの人々の前で、石に書き写した。

33 こうしてすべてのイスラエルびとは、本国人も、寄留の他国人も、長老、つかさびと、さばきびとと共に、主の契約の箱をかくレビびとである祭司たちの前で、箱のこなたとかなたに分れて、半ばはゲリジム山の前に、半ばはエバル山の前に立った。これは主のしもべモーセがさきに命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。

34 そして後、ヨシュアはすべての律法の書にしるされている所にしたがって、祝福と、のろいとに関する律法の言葉をことごとく読んだ。

35 モーセが命じたすべての言葉のうち、ヨシュアがイスラエルの全会衆および女と子どもたち、ならびにイスラエルのうちに住む寄留の他国人の前で、読まなかったものは一つもなかった。 

 旧約聖書の根幹をなす律法が、このように異邦人にも読み聞かせるように命じていたのだから、「聖書は異邦人のためにではない」という意見は、律法自身の啓示によって反証することができる。

 勿論、主なる神はご自身の啓示をまずイスラエルの民に委ねたことは事実であり、イスラエルの民にその特権と責任を与えられていたことは、使徒パウロも証している通りである。

ローマ3:1-2

1 では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。

2 それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。  

ローマ9:4-5

4 彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、

5 また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。 

 しかし現実的には、多くの預言者が証しているように、イスラエルの民はこの特権を踏みにじり、神の言葉を絶えず蔑ろにしていた。

エレミヤ8:9

知恵ある者は、はずかしめられ、あわてふためき、捕えられる。見よ、彼らは主の言葉を捨てた、彼らになんの知恵があろうか。 

エゼキエル20:16

これは彼らがその心に偶像を慕って、わがおきてを捨て、わが定めに歩まず、わが安息日を汚したからである。 

ホセヤ4:6

わたしの民は知識がないために滅ぼされる。あなたは知識を捨てたゆえに、わたしもあなたを捨てて、わたしの祭司としない。あなたはあなたの神の律法を忘れたゆえに、わたしもまたあなたの子らを忘れる。 

 主イエス・キリストも、人々の言い伝えによって神の言葉を実質的に無にしていた律法学者やパリサイびとらを幾度も厳しく戒めた。

マルコ7:13

こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。 

 「神の言葉が優先的に委ねられていた」つまり「旧約聖書はまずユダヤ人のためにある」という特権は、実際には、彼らの不従順によって「裁き」となっていたのである。このような観点においても、「聖書は異邦人のためではない」という説は、霊的実質を持ち合わせていないのである。

 続いて新約聖書について検証してみよう。これはイエス・キリストの贖罪が、ユダヤ人のみならず全人類の救いのためだったことを考慮するだけで、反駁することができるが、極シンプルに新約聖書の各書の性質を見れば、「聖書は異邦人のためにも書かれた」ことがわかるのである。

 例えば、『ルカによる福音書』と『使徒行伝』は、ローマ人高官のテオピロがイエス・キリストの福音をより正確に理解できる目的のためにギリシャ語で書かれたものである。(参照:『ルカによる福音書』と『使徒行伝』の文脈 

 また使徒パウロの数々の書簡は、小アジア(現在のトルコ)やギリシャ、そしてイタリアのローマなどの各都市の教会にギリシャ語で書かれたものである。『テトスへの手紙』は、クレタ島で宣教していたギリシャ人テトスに書かれたものであり、『ピレモンへの手紙』も小アジアの町コロサイの異邦人信徒ピレモンへ宛てて書かれた手紙である。

 『第一ペテロの手紙』や『黙示録』の現代のトルコの領域に散在していた教会宛てに、ギリシャ語で書かれたものである。

 これらの新約聖書の要素だけでも、「聖書は異邦人のためにではない」という説が全く論拠を持たないことは明らかである。

 最後に、上述のブログ主が自説の立証するために引用している「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」という聖句について検証してみよう。

マタイ15:21-28

21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。

22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。

23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。

24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。

25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。

26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。

27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。

28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。 

 これは主イエス・キリストの地上における宣教の優先的目的について語っているのであって、福音の啓示の対象を永久的に限定しているのでは決してない。もしそうだったら、使徒たちが異邦人に福音を宣べ伝えたことは、主イエスの教えに背く行為になったはずであるし、それよりもまず、主ご自身の行動とも矛盾することになるからである。なぜなら、主イエスはイスラエルに属していないツロの町まで行って、イスラエルの民に属していなかったカナンの女の祈りに対して答えたのだから。

 また、サマリヤの町スカルで宣教したことや(ヨハネ4章 比較マタイ10:5)、カぺルナウムにいたローマ軍の百卒長の願いを聞き、彼の部下を癒したこと(マタイ8:5-13)など、主イエスがご自身の民に対する優先的な宣教活動においても、異邦人のことを決して見捨てず、愛をもって癒しと魂の救いをもたらしていた具体例を福音書の中に見出すことができる。従って、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」という主イエスの言葉は、「聖書は異邦人のためではない」という主張の論拠とはならない。

 私はこの説がどこから来るのか、解っている。だからこそ明確に書いておきたい。福音的根拠と霊的実質をもたないユダヤ選民意識から派生した教えによって、全人類の前に備えられた恵みの扉を閉じようとしてはならない。その扉を異邦人のためにも開けたのは、主イエス・キリストの尊き命なのだから。

ヨハネ20:31

しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

ローマ15:4

これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。 

Ⅰコリント9:8-10a

8 わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。

9 すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。 

10a それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。

Ⅰヨハネ5:10-13

10 神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。

11 そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。

12 御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。

13 これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。