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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(31)信仰義認の必要条件

ローマびとへの手紙 救いへの一歩 十字架の言 現代福音宣教の問題点

ローマ4:6-8

6 ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、

7 「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。 

8 罪を主に認められない人は、さいわいである」。

 使徒パウロはここで詩篇32の冒頭部分を引用している。

詩篇32:1-6

1 ダビデのマスキールの歌

そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。

2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。

4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた。〔セラ

5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にもその身に及ぶことはない。

  この詩篇には、「神によって罪を赦される幸福」を自分の経験とするための非常に重要な要素が啓示されている。それは「聖霊による良心の呵責」と「罪の告白」である。この二つは片方だけでは十分でなく、両方が不可欠なものである。

 私は憎まれるのを覚悟で書くが、これらのふたつの霊的要素をもたない「救い」の証は、聖書が啓示している「救い」とは異なるものであると思う。

 まず「聖霊による良心の呵責」についてみてみよう。

3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた。 

 ダビデ王は自分が犯した罪に関して、自覚していた。彼は幼い時から神の律法に親しみ、何が神の御前で罪であるか知っていたからである。

 最近の伝道集会などでまだ使われているか知らないが、以前よく耳にした『罪びとの祈り』というものがある。

「神さま。私は自分が罪人であることを知っています。私は、罪の結果を受けるべき者です。しかし、私はイエス·キリストを私の救い主として信じます。私は、イエスさまが死んでよみがえられたおかげで、私に赦しが与えられた事を信じます。イエスさまに信頼します。イエスさまだけがわたしの主であり救い主です。主よ、私の救いと赦しを感謝します。アーメン。」 

  主イエス・キリストを救い主として受け入れていない人々に対して、この『罪びとの祈り』を牧師・宣教師のあとに従って「祈る」ように促される。しかし実際には、これらの人々には「何が神にとって罪であるか」ということを明確に伝えられていないので、「自分が罪びとである」という自覚は非常に漠然としていて、結果的に「何から救われなければいけないのか」「なぜイエス様が死んでよみがえったことが、自分と関係あるのか」全く理解も実感もないまま、『罪びとの祈り』をただ繰り返すのである。

 日本に一時帰国した際に一度だけ参加したホームレスの人々を対象とした伝道集会において、女子神学生のパワーポイントを使ったメッセージの後に、この祈りを会場の人々に繰り返させ、執拗な「招き」によって、何人からのホームレスの男性がその場で「滴礼」(牧師が額に水を垂らして、「洗礼」する行為)を授けられているのを見て、あらゆる意味で衝撃を受けた経験がある。特に私は、「滴礼」を受けた男性たちのすぐ近くに座っていて、彼らが「しらふ」ではないことを気づいていたので、彼らが『罪びとの祈り』を口にしたから救われた、と宣言し、「今日の集会でも数人が救われた」として喜んでいる牧師に対して愕然としたのである。

 もう一度、ダビデ王の言葉を読んでみてほしい。私たちは彼の心の何日にも及ぶ「罪を認めようとしない悪あがき」を、一人でのたうちまわる葛藤を、そして憔悴しきって「枯れた心」を、リアルに読み取ることができる。これこそ、「聖霊による罪の呵責」である。誰もそこから逃げることはできない。誤魔化すこともできない。聖霊が神のみ言葉によって、私たちの罪を浮彫にしているので、見て見ぬふりなどできないのである。まさに「あなたの御手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである」という状態である。

 そして聖霊は、私たちが身動き取れずに救いを求めるしかないところまで、私たちを導く。そこではじめて「罪の告白」が与えれるのである。

5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。

その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。 

 それは主なる神に対する罪の告白である。成熟した信徒や牧師・教師に対する告白は、最終的に祈りの中で個人的に主なる神に罪を告白することの助けにはなるだろう。だが、罪を赦すことができる方は、主なる神のみであるから、各自、ダビデのように信仰をもって見えない神の御前に祈り、「わたしのとがを主に告白しよう」と決心しなければならない。

 このとき、聖霊なる神は、御子イエスの十字架による罪の赦しを啓示してくださるのである。その御子の死と復活を信じることによって、義認、つまり神があなたの罪を完全に赦し、あなたのことを「義」とするのである。

ローマ5:1

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。

 信仰による義認によって与えられる神との平和な関係。これこそ、人間の真の幸福である。

箴言28:13

その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。