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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

試練の境界線

試練 弱さのうちに顕れるキリストのいのち 十字架の言

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Iコリント10:13

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

 この聖句は、多くの信仰者を励ましてきた御言葉であり、暗記している人も多いのではないだろうか。試練の中にいる聖徒に、目には見えない「神の絶対的統治」に信頼する心を与えてくれる御言葉である。

 それでも「目に見える現実」との激しい葛藤がないと言ったら、私たちは偽り者になろう。なぜなら、多くの場合、試練は時間的にも、質的にも、私たちが考える許容範囲をはるかに超え、私たちが「ここまで」といって引く境界線をまるっきり無視して、まるで無限大に拡がっていったり、底なしの深みまで落ちていったりするように感じるからである。。

 私たちはそのとき、神の真実や愛について戸惑いや疑いを感じ、多くの預言者たちのように嘆き祈る。

イザヤ63:15

どうか、天から見おろし、その聖なる栄光あるすみかからごらんください。あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。あなたのせつなる同情とあわれみとはおさえられて、わたしにあらわれません。 

イザヤ64:12

主よ、これらの事があってもなお、あなたはみずからをおさえ、黙して、われわれをいたく苦しめられるのですか。

 私たちが不義や不公平、不条理に感じたりする境界線は、至極、日常的な生の中にあり、それほど私たちから離れていなかったりする。社会人、親、子としての当たり前の義務の中でも、報酬など度外視した奉仕の中でも、不満や愚痴、苛立ちなどを感じ、「もうだめ」とか「これ以上、無理」、「絶対、あり得ない」とつぶやいてしまう。

ルカ10:40

ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」

マルコ3:20-21

20 群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。

21 身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。

 それでも主イエス・キリストはその手を休めない。私たちが引いた境界線をいつも越え、彼だけが知る「耐えられる試練の領域」まで私たちを押し出す。それは時に、不慮の事故や重い病気、命さえも脅かす領域であったりする。

 私たちは必死である。私たちの乗っている舟の中に水が入ってきてはいけないのだ!栄光と力の主イエスと共にいる私たちには、辱めや苦しみがあってはならないのだ!と必死に「越えてはならない一線」を引く。

マルコ4:37-38

37 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。

38 ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。 

マタイ16:21-22

21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。

22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。 

 主イエスはそんな私たちの不信仰を戒める。だがその主の言葉によって、私たちは気が付くのである。主イエスは私たちが「もう耐えられない」と思っている試練の中で、苦しんでいる私たちと共におられることを。そしてそれがまさに「十字架の友」として歩む信仰者の在り方であることを。

マタイ16:23-25

23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。 

ピリピ3:8-12

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、

11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。

12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

 私たちが試練を耐えられるようにと神が備えてくださる「のがれの道」とは、十字架に架けられた主イエス・キリスト自身である。

 彼に従って歩み、また多くの「十字架の友」と交わることによって、私たちの上の空はさらに高く、その地平はどんどん広がってゆく。

エペソ3:16-21

16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、

17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、

18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、

19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、

21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。