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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神が罪びとの心に授けられた「願い」と「思い」

創世記3:4-6;22

4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 

伝道の書3:11

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

 アダムとエバが神の唯一の戒めを破ってでも欲しいと願い、「死」と引き換えに手に入れたものは何か。それは「神のように善悪を知る者になること」である。実際、三位一体の神は、アダムとエバを園から追放する前に、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった」と言っている。

 しかし主なる神の永遠の計画にとって、それは不測の出来事ではなかった。神は罪びとの「神にように善悪を知る者になりたい」という願望をもとに、律法の戒めの知識を通して「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである」という自己認識、つまり「神のように善悪を知っているが、神のようにその善をする力も、悪をしない力も自分にないことの絶望」「神のように善悪を知っているが、神の命を持たない無力感」へ至らせ、主イエス・キリストの救いへと導く計画を備えてくださったのである。

 聖霊は、使徒パウロの個人的告白を通して、その現実をリアルに啓示している。

 ローマ7:9-24

9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、

10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。

11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。

12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。

15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。

17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。

20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、

23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

ガラテヤ3:23-24

23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。

24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

 罪に陥ったことによって「神のように善悪を知る者になりたい」という願いはさらに歪み、「善悪の知識」も罪と偽りで「汚染」されてしまった。宗教的・霊的探求心はあるが、実際は自分自身の幸福や平安を求めているだけで、「真の神」を求める願いを失ってしまい、偽りの善悪によって自分肯定し、反対に自己否定し、他人を、社会を、人生を裁定する。

ローマ3:10-18

10 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。

11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。

12 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。

13 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。

15 彼らの足は、血を流すのに速く、

16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

17 そして、彼らは平和の道を知らない。

18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。 

 しかし「願い」自体は、人間の心のなかに確かにあるのである。神はその願いを用いて、人の心をご自身の方向に向かわせる。

ピリピ2:12-13

12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。

13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 

 その願いはまた、神がすべての人の心に授けられた「永遠を思う思い」でもある。

神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。

 そしてその思いは、罪びとの心の中にあって、伝道の書の中でソロモン王が繰り返し書き記しているあの「虚無」として顕れる。なぜなら、罪びとは、物質的存在以上のことを思うが、それを自分の力で得ることも、またそれがどのようなものであるかの確信さえも失ってしまったからである。

 人間は「偽りの知識」によって自分の生が物質的なものでしかなく、富や地位や名声を得ることが、その地上における生物的存在に意味を与えるものだと考える。しかしまるで大事な部分をなくしてしまったパズルのように、何かが決定的に足りないのである。もし神が人間に「永遠の思い」を授けなかったならば、そしてもし本当に人間がただの「偶然の蓄積物」に過ぎないのであったら、虚無感など存在せず、「足りないピース」も「完成すべきパズル」さえもなかっただろう。しかし、現実には何かが決定的に足りないのである。

 神はその虚無感として顕れる「永遠を思う思い」を、蔑ろにしない。むしろそれを用いて、主イエス・キリストの十字架を見上げるように導いてくださるのである。

 主なる神はこの罪の中に閉じ込められた「願い」と「思い」をご存じであるがゆえ、38年間も病気に苦しみ、癒しを求めてベテスダの池のところにいた男に、「なおりたいか」と尋ねられたのである。

ヨハネ5:1-9

1 こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。

2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。

3 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。

4 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕

5 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。

6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。

7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。 

 もし主イエスがこの男の罪に閉じ込められた意志を見ていなかったら、このような問いかけはせず、また癒した後に、次のような警告の言葉もかけなかっただろう。

ヨハネ5:14

そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。 

 愛と義の神は、意志のない操り人形を操って暇つぶししているのではない。罪びとができないことをやって見せて一人悦に入っているわけでもない。「神学問答」をして、正しい回答をした者を愛し、答えられなかった者を捨てておく、という「神」でもない。

 神の命から遠く離れ、罪の中に生きる人間の心にある「願い」と「思い」を用い、御子イエスの十字架によってその心を引き寄せ、その身代わりの死によって罪を清め、愛の応答を伴う交わりによって一つになりたいと願っているのである。