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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(29)信仰によって義とされたアブラハムとダビデ

ローマびとへの手紙

ローマ4:1-13

1 それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。

2 もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。

3 なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。

4 いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。

5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

6 ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、

7 「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。

8 罪を主に認められない人は、さいわいである」。

9 さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。

10 それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。

11 そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、

12 かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。

13 なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。 

 「信仰義認」つまり「働きはなくても、不信心な者を義とする神を信じる人は、その信仰が義と認められる」という真理の具体例として、使徒パウロは旧約聖書から二人の人物名を挙げている。アブラハムとダビデである。これはアブラハムが「神の友」(ヤコブ2:23)、ダビデは主なる神に「わたしの心にかなった人」(使徒13:22)と呼ばれた人物であったことを考えると、一見矛盾しているように思える。

 だがこれは聖書が啓示する人間観に基づいたものである。つまり、全ての人間は神の神聖さの前に罪びとであり、いくらその善行や徳を並べ立てても、神の前で罪を取り除き、神の栄光を受けることができないからである。それはアブラハムもダビデも例外ではない。彼らも恵みの時代に生きる信仰者と同様、自分たちの善行によってではなく、ひたすら信仰によって神に義とされたのである。

 そしてその同じ信仰によって、時には大きな罪を犯し、時には苦難や不合理な迫害に苦しみながらも、ひたすら神と共に遜って歩き続けたことによって、「神の友」「神の心にかなった人」と神自身に見做されたのである。

へブル10:38

わが義人は、信仰によって生きる。

もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない。