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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(25)神の栄光の欠如

ローマ3:23-24

23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、

24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

 人間は本来、地上において神の栄光を顕すために、「神のかたち」「神の似姿」に命を与えられた。それは完全な神にあって「はなはだ良い」と満足させるものであった。なぜなら、父なる神の心を喜ばせる御子のかたちに人間が創られたからであった。

 しかし人間は自ら罪を犯すことによって、その自分のうちに光り輝く「神の栄光」を失った。アダムとエバは、それを失うことが一体何を、またどれだけのことを意味するのか、理解していなかった。しかし実際にそれを決定的に失ってしまったのである。

 多くの人にとって「神の栄光に欠くあり方」はごく普通の状態であり、むしろ「人間の栄光に欠くあり方」の方が問題であり、慢性的な不足感やコンプレックスを感じて生きている。「富が足りない」「キャリアがない」「学歴がない」「他人の評価が足りない」、等々。逆にその「人間の栄光を受けている」人々は、他人が羨むほどの栄誉や富さえも蝕む恐ろしいバケモノが、自分を虚無の暗闇に突き落とすことに密かにおびえて生きている。

 慢性的に不足感に苦しむ人も、ソロモン王のように富と成功の中で発作的な虚無感に怯えている人にとっても、足りないのは地上的な人間の栄光などではなく、永遠の神の栄光なのだ。

彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

 義なる神が無邪気な人間から一度は与えたご自身の栄光を奪い去ったのだろうか。否、違う。人間が神に対して罪を犯したが故に、神の栄光を見失ったのである。代価を払うべきは罪を犯した人間であった。しかし、神はその最終的責任を人間に負わすことをせず、罪のない御子自身が身代わりとなって十字架の上で負うことによって、神の子としての栄光を受ける権利を信じる者に与えたのである。

 

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