an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(20)真理を拒否する心

ローマ3:1-9

1 では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。

2 それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。

3 すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。

4 断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。

5 しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。

6 断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。

7 しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。

8 むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。

9 すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。 

 この箇所で使徒パウロは、「もし~としたら」という形で三つの仮定条件を持ち出し、それぞれに対して「断じてそうではない」「罰せられるのは当然である」という強い否定表現を使ってその仮定を打ち消している。

①もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。

>>>断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。

②もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、怒りを下す神は、不義であると言うのか。

>>>断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。

③もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。

>>>(「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」と言っている)彼らが罰せられるのは当然である。 

 なぜ使徒パウロは、このような込み入った自問自答をしたのだろうか。それは、キリストの贖罪の大前提である真理が引き起こす、人間の心の否定的反応をよく熟知していたからである。

 つまり、福音の真理が「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあること」(9節)や「すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである」(19節)と語るとき、人間の心、特に宗教的・道徳的だと自負する人間の心は、それを受け入れることを拒み、否定し、嘲笑し、反論し、そして神の言葉を自分の都合に合わせて曲解する強烈な力が働くのである。

 時には①の考えのように、歴史の中のネガティブな例を持ち出し、一般論を使いながら、聖書自身の真理を否定したり、②と③の場合のように自分の罪の責任を誤魔化し、まるで神の義が顕れるために人間の不義が必要かのように、自分の罪のありもしない機能論を持ち出したり、真理を無視して自己正当化し、神の正義に挑むかのように、神の栄光がより増すために悪をし続けようという悪魔的な放縦の思いまで出てくるのである。

 実際、「神の計画が成就するのに悪魔の存在は必要だ。それなのに、なぜ神は悪魔を裁くのか」とか、「イスカリオテのユダが裏切らなかったら、イエス・キリストは逮捕されなかったし、十字架にもかけられなかった。それなのになぜ裏切り者として裁かれれなければならないのか」「罪を犯すことを恐れてはならない。神は十字架によってすべての罪を赦してくださるのだ。むしろその罪が大きければ大きいほど、神の恵みの絶大さを表すことになるのだ」などと、卑屈で歪んだことを主張する者はどの時代にもいるのである。まさに使徒パウロの言葉は正しい。「彼らが罰せられるのは当然である。」

箴言19:1-3

1 正しく歩む貧しい者は、曲ったことを言う愚かな者にまさる。

2 人が知識のないのは良くない、足で急ぐ者は道に迷う。

3 人は自分の愚かさによって道につまずき、かえって心のうちに主をうらむ。