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『ローマびとへの手紙』(19)罪びとの不真実によって、神の真実は無になるであろうか。

ローマ3:1-9

1 では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。

2 それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。

3 すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。

4 断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。

5 しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。

6 断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。

7 しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。

8 むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。

9 すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。 

 使徒パウロはここで、自問自答というレトリックを使って、キリストの福音の前提である真理、つまり「ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にある」という重要な啓示に足早に進んでいる。実際、「ユダヤ人のすぐれている点は何か」「また割礼の益は何か」という問いかけに対して、「いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである」と「数多くある」中の第一の要素を答えながらも、その他の優位な点や、「割礼の益」に関する答えは省略して触れていないのである。

 この「(ユダヤ人の優れた点が)数多くある」や「まず第一に神の言葉が彼らに委ねられていること」という回答は、9節の「わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない」という宣言と矛盾しているように思えるが、神の言を委ねられていることはそれを守らなければ、その優位な点はむしろ裁きになることは、前の章で説明している。

ローマ2:12-13;25

12 そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。

13 なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。

25 もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。 

 また律法そのものの働き、つまり「神の義と神聖さを啓示することによって、人間の罪を明らかにする」という働きが、神の言葉が委ねられている優位な点を、「律法のもとで罪を犯した者は、律法によって裁かれる」「異邦人と同様にユダヤ人も罪の下にあるので、何も優ったものはない」という現実の認識へと導くのである。

ローマ3:20

なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 

 使徒パウロの次の質問は非常に重要である。神の言葉を真っ先に委ねられたユダヤ人たちにおいて、彼らの不義が明らかになった場合、その不義によって神の言葉の真理は否定されるだろうか。

もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。

 これはキリスト教会の歴史においても適用できる問いかけである。人類はその歴史の中で多くの不義や暴力、殺戮、争い、略奪を犯してきた。それは時代や文化、宗教の違いを超えて史実として記録されている。当然、キリスト教文化圏においておきたことは、「キリスト教の教え」自身が基準となって裁かれるのである。「キリスト教は愛と清さと赦しを教えているのに、実際にキリスト教徒は戦争と略奪を繰り返してきた。だからキリスト教は無意味である」という批判がでるのである。

 しかし使徒パウロのレトリックを借りて自問してみよう。「キリスト教徒のうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、キリストの福音の真実は無になるであろうか。」

 さらに深めて問いかけることもできる。「十二使徒のうちの一人イスカリオテのユダが裏切り者になったからと言って、キリストの真理は無になるであろうか。」「コリント教会の中で様々な罪や混乱があったからと言って、使徒パウロが宣べ伝えていたキリストの福音は無になるであろうか。」

 さらに自分自身に適用してみればより理解しやすい。「私の不真実は、神の真実を無にするものか」「私が犯す罪によって、神の真理を無にすることになるのか」と。

 実際、ユダヤ人や私を含めた全人類の罪は、その不真実によって、神の真実である御子イエスを「無にしよう」とした。否、御子自身が全人類の不真実の責任を負って、まるで自分が不真実な者の代表になったかのように、十字架の裁きを受けたのである。しかし、神は御子を死から復活させることによって、その真理が永遠であることを証明したのである。

 勿論、キリストの恵みによって聖霊を受けたキリスト者は、旧約聖書の時代に生きていた人々よりも責任は重い。キリストの愛の教えを知りながらも、暴力や殺戮、略奪を行うものは、律法の下で不義を犯していたユダヤ人たちよりも、神の御名をより汚していると言える。しかし、キリストの名において不義を犯した者の責任は、不義を犯した者のものであって、主キリストのものでも、福音のものでもない。主イエスはもうすでに、罪びとの罪過を負って身代わりの死を遂げているのだから。

 それ故、人々の不真実は、神の真実を無にすることはできないのである。むしろ神の真実が、彼らの言動を不真実なものとして裁いているのである。

 この啓示は、たとい教会の様々なスキャンダルによって躓き、教会を離れてしまっている魂があったとしても、主なる神の真理は決して変わることなく、その十字架と復活によって示された愛は不変で、どのような状況でも求め続けることができることを示している。

 

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