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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「石」を恐れるな。「斧」と「火」を畏れよ。

ルカ3:7-9

7 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。

8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。

9 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。 

 もし現代の教会の礼拝もしくはどこかのホールで開かれる特別集会に、群衆がこぞって参加し、しかも洗礼を受けたいと言ったとしたら、牧師や伝道師はその人々にどんな言葉をかけるだろうか。「神様はあなた方のことを愛しておられます」「そのままの自分でイエス様のところに行きましょう」、それとも「あなたはもう救われてます。だから洗礼を受けましょう」だろうか。誰も「まむしの子らよ」と呼びかけないだろうし、説教の中で「神の怒り」を語ることもないだろう。しかしそれがまさに、自分のところに悔い改めの洗礼を受けに来ていた群衆に向かって洗礼者ヨハネが語っていた言葉であった。

 彼は自分たちのことを「アブラハムの子孫」と自認していたユダヤ人たちに、「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」と言い、悔い改めの洗礼を受けに来ていた人々に「悔い改めにふさわしい実を結べ」、もしその実を結ばなければ「火の中に投げ込まれる」と裁きの可能性を語った。

 現代の多くの福音宣教は、「永遠の裁きからの救い」という目的を見失い、地域教会の数字的成長が実質的目標になっているので、「罪びととしての絶望的な状態」も「悔い改め」も「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」も「裁きの危機感」も語られなくなってしまった。教会に来訪する人は、「そのまま」受け入れられ、通っているうちに共同体の空気になれ、「なんとなく」洗礼を受け、新生体験もせず、心の中に罪の赦しや救いの確信を持たないまま、「教会生活」を送ることになる。確信もないけど、迫害もない。

 あるポルトガル人の宣教師が、冒頭の聖句を説き明かしながらこう言った。「もしあなたが悔い改めの実を結べば、その実を落とそうとサタンがあなたに向かって石を投げてくるだろう。しかしもし実を結ばなければ、根元の置いてある斧によって切り倒され、あなたは火の中に投げ込まれるだろう。だからあなたに向かって飛んでくる石を決して恐れてはならない。むしろ斧と火を畏れなさい」と。

マタイ10:24-31

24 弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。 

25 弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。

26 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。

27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。

28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

29 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。

30 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。

31 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。 

 だから恐れず、主イエスが聖霊を通して「暗闇で」語りかけてくることを、明るみで言おう。耳に囁かれることを、「屋根の上で」大胆に言い広めよう。