誕生日に関する考察
ブラジルの南部に住む信仰者から、彼女が家族で通っている教会の情報を時々受ける。千人以上の会員がいる大きな教会で、毎週のように洗礼を受ける人がいるという。
その教会は毎年、教会の開拓者であり、現役の牧師の誕生日に感謝礼拝を行うということで、以前ブラジルまで来ないかと招待されたことがある。牧師の誕生日を教会の礼拝において祝福するのは、ブラジルではごく一般的な習慣らしいが、身近にそのような習慣がなかったので、そのことについて考える機会となった。
確かに「誕生日を祝う」という習慣は、文化や歴史の中で様々な捉え方があるようだ。同じ文化の中にあっても、性別や年齢の違いによって誕生日自体に対する考え方がだいぶ異なるのは、一人の個人の年齢の推移によっても実感できるのではないだろうか。四十代の男性が自分の誕生日について思うことは、当然、小学生の時に感じていたことは異なるはずである。(これに関しては、『わたしたちにとって誕生日とは何か』という論文がとても興味深い。)
実際に一人の人間として母体の中で生命をもつのは、誕生日よりも9か月以上前であるし、一人の人格として自意識をもつのは誕生日よりもだいぶ後である。だからこそ、一人の人間の誕生日に関する意識は、親、特に母親の意識や記憶と強い関連性を持っているのではないだろうか。
聖書の中では、「誕生日」に関してどのような記述があるだろうか。ヨセフが無実の罪で牢獄に閉じ込められていたとき、ファラオ王の誕生日の祝宴があったと記述されている。
創世記40:20-22
20 さて三日目はパロの誕生日であったので、パロはすべての家来のためにふるまいを設け、家来のうちの給仕役の長の頭と、料理役の長の頭を上げた。
21 すなわちパロは給仕役の長を給仕役の職に返したので、彼はパロの手に杯をささげた。
22 しかしパロは料理役の長を木に掛けた。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりである。
もう一つの記述は新約聖書にある。
マタイ14:6-10
6 さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、
7 彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。
8 すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。
9 王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、
10 人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。
どちらの記述においても、この世の権力者の誕生日に、神のしもべが不当に投獄されていたのは興味深い。ヨセフは夢を解き明かしたにも関わらず、ファラオ王の祝宴の日に牢獄に一人取り残され、その後丸二年間忘れ去られた。洗礼者ヨハネの場合はもっとひどく、姦淫の女ヘロデヤの凶悪非道なリクエストによって、ヘロデ王に首を切られて殉教した。
ファラオ王やヘロデ王にとって、王という社会的地位とそれにまつわる虚栄心が、このような形で祝う誕生日の本質だった。
それでは、神のしもべという立場にいた信仰者については、聖書はどのように語っているだろうか。残念ながら、「誕生日を祝う」という内容の記述は見当たらない。むしろ、言い得ぬ苦難の中で「自分の生まれた日を呪う」二人の神のしもべについて書かれている。ヨブと預言者エレミヤである。
ヨブ3:1-13
1 この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。
2 すなわちヨブは言った、
3 「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。
4 その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように。
5 やみと暗黒がこれを取りもどすように。雲が、その上にとどまるように。日を暗くする者が、これを脅かすように。
6 その夜は、暗やみが、これを捕えるように。年の日のうちに加わらないように。月の数にもはいらないように。
7 また、その夜は、はらむことのないように。喜びの声がそのうちに聞かれないように。
8 日をのろう者が、これをのろうように。レビヤタンを奮い起すに巧みな者が、これをのろうように。
9 その明けの星は暗くなるように。光を望んでも、得られないように。また、あけぼののまぶたを見ることのないように。
10 これは、わたしの母の胎の戸を閉じず、また悩みをわたしの目に隠さなかったからである。
11 なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。腹から出たとき息が絶えなかったのか。
12 なにゆえ、ひざが、わたしを受けたのか。なにゆえ、乳ぶさがあって、わたしはそれを吸ったのか。
13 そうしなかったならば、わたしは伏して休み、眠ったであろう。
エレミヤ20:14-18
14 わたしの生れた日はのろわれよ。母がわたしを産んだ日は祝福を受けるな。
15 わたしの父に「男の子が、生れました」と告げて、彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。
16 その人は、主のあわれみを受けることなく、滅ぼされた町のようになれ。朝には、彼に叫びを聞かせ、昼には戦いの声を聞かせよ。
17 彼がわたしを胎内で殺さず、わが母をわたしの墓場となさず、その胎をいつまでも大きくしなかったからである。
18 なにゆえにわたしは胎内を出てきて、悩みと悲しみに会い、恥を受けて一生を過ごすのか。
エレミヤ15:10
ああ、わたしはわざわいだ。わが母よ、あなたは、なぜ、わたしを産んだのか。全国の人はわたしと争い、わたしを攻める。わたしは人に貸したこともなく、人に借りたこともないのに、皆わたしをのろう。
試練や迫害のあまりの厳しさに、自分の生まれた日を呪い、「わたしの生れた日は滅びうせよ」と叫び、「わが母よ、あなたは、なぜ、私を産んだのか」と問わずにいられなかった。それは自分の存在を呪うだけでなく、自分の両親を呪い、命を与える神の計画を否定することを意味していた。勿論、誰にもヨブやエレミヤを断罪する権利などない(ヨブは一日に全財産と十人の子供を失い、自身は全身が腫瘍に覆われ、苦しんでいた。)
しかし全ての者に命を与える神の律法には、このような戒めが書かれている。
申命記27:16
『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
イエス・キリストが十字架の上の「呪い」となられたとき、上述のような呪いさえも私たちの代わりに全て背負ってくださったのである。
ガラテヤ3:13-14
13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。
そのイエス・キリストが地上に生まれた時のエピソードは、『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』の中に書かかれている。野宿していた羊飼いたちは、「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」という御使いの声を聞き、 実際にそれを確認した。
ルカ2:8-20
8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。
17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。
18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。
19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。
20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。
羊飼いの他にも、東方から来た博士たちやその証を聞いたエルサレムの権力者たち、またヨセフとマリアがエルサレムの宮参りをした時に、シメオンや預言者アンナの証を聞いた人々など、救い主メシアの誕生を見聞きした人々は大勢いた。
それにもかかわらず、約三十年後に主イエス・キリストが福音宣教を始めたとき、故郷の人々は彼を殺そうとし、多くの指導者たちも同様で、民衆はただ自分たちの都合のために従っていた。母親のマリアさえも、自分の息子の真のアイデンティティーを理解していなかった。
三年間、昼夜イエスに従っていた弟子たちを含め、人々が「今日、ダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」という宣言の真の意味を理解したのは、キリストが神の子羊として十字架の上で呪いとなり死に、復活して、聖霊を遣わした後であったことを忘れてはならないだろう。
地上に生まれ、死を通らずに天に引き上げられたエノクやエリヤは、私たちに罪の赦しと救いをもたらすことができなかった。ただ私たちの身代わりとなって命を捧げた御子イエスの死だけが、私たちにキリストの命の真の意味を啓示してくれること、そしてその御子の死は、律法による全ての呪いを背負った死であったことから、決して目を逸らしてはならない。
そういう意味で、生まれて八日目の幼児イエスを抱えた老信徒シメオンが語った言葉は、実に霊的である。
ルカ2:34-35
34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――
35 そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。
今の時期、多くの教会が「救い主の誕生を感謝する日」(それは「キリストの誕生日」ではない。12月25日が「キリストの誕生日」であるという聖書的根拠は全く存在しないからである)のために準備している。この世の中でも、信仰とは関係なく、プレゼントの交換やパーティーなどをする。教会では劇を企画し、コーラスを歌い、クリスマス・コンサートなどが行われる。未信者が教会に訪れるきっかけになるという理由づけももっともである。
しかし、主イエスが地上の教会に命じた「催し事」は、まず第一に、「誕生を祝う」一年に一回の特別な機会などではなく、「その死を思い出すための」聖餐式であることを心に刻み込むことは、私たちがこの時期に発するメッセージが、一過性のセンチメンタルなものではなく、聖霊の力によるものになるために重要な要素ではないだろうか。
Ⅰコリント11:23-26
23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、
24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
そして聖霊の力を受けたそのような言葉は、この世の騒ぎや華やかなイルミネーションと無関係に、ヨブやエレミヤのように自分の生まれた日を呪うような苦しみと孤独の中に閉じ込められている魂に、キリストの命の光をもたらすことだろう。