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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

剣をとる者はみな、剣で滅びる。

マタイ26:51-54

51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。

52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。

53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。

54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。 

 ゲツセマネの園において主イエスがペテロに対して「剣をとる者はみな、剣で滅びる」と警告した時、御子は「これからは戦争のない平和な時代が来るから、剣は必要なくなる」とも「あなたがたを迫害する者はいなくなるでしょう」とも約束しなかった。

 むしろその逆で、主イエスは世には戦争や争いが起こり、敬虔な者は迫害が受けることを預言した。

マタイ24:6-9

6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。

7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。

8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。

9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。 

 また「剣をとる者はみな、剣で滅びる」という言葉は、正義の神が悪に目をつぶり、不義の責任の所在を曖昧にしていることを意味していない。御子がもし望んだなら「天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができ」たろう。

 そして「剣をとるな」とも命じていない。「剣をとる者はみな、剣で滅びる」という法則を啓示しているのである。実際、『ルカによる福音書』によれば、主イエスがゲツセマネの園につく前に、「つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。」と命じたことが書かれている。

ルカ22:35-38

35 そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。

36 そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。

37 あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。

38 弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。 

 ただしこの「つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」を、エペソ6:17やへブル4:12、Ⅰペテロ4:1を基に、「心の武装」であり「神の武具」のひとつである「御言葉」のシンボルとする解釈もある。(個人的にはその霊的適用は、この文脈においては適切でないと思っている。)

エペソ6:17

また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

へブル4:12

というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。 

Ⅰペテロ4:1

このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。 

 そして弟子たちが「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」とイエスに見せたとき、彼が「それでよい」と答えたのを、合意として解釈するか、霊的な意味を理解していなかった弟子たちに半ば呆れている言葉として解釈するかで、翻訳も異なっている。

(文語訳)イエス言ひたまふ『足れり』

(新改訳)イエスは彼らに、「それで十分。」と言われた。

(新共同訳)イエスは、「それでよい」と言われた。

(岩波訳)すると彼は彼らに言った、「〔そのようなことで〕十分なのか」。

(塚本訳)イエスが(笑いながら)言われた、「それで沢山々々。」

(KJV)And he said unto them, It is enough.

 原文は疑問形ではないし、イエスが笑って言ったと解釈できる根拠はないので、岩波訳と塚本訳は、意訳である。

 ただ主イエスがここで剣の所持を受容したとしても、「剣をとる者はみな、剣で滅びる」と言っているので、その使用を認めていないことは確かである。また、大祭司の下男の右の耳(何というディティールだろうか!)を剣でもって切り落としたペテロに対して、主イエスがそれを止め、「剣を鞘におさめよ」と命令しているので、武力の行使を認めていないのは明らかである。(武器の所持は、危機的な状況の時に武力の行使へつながることを弟子たちに示そうとしたのだろうか。)

ルカ22:51

イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触て、おいやしになった。 

ヨハネ18:10-11

10 するとシモン・ペテロは、持っていた剣を抜いて大祭司の下男に切りつけ、右の耳を切り落としてしまった。下男の名はマルコスといった。

11 イエスはペテロに言われた、「剣を鞘におさめよ。父上が下さった杯、それを飲みほさないでよかろうか!」

 実際、主イエスの十字架の死と復活を通して聖霊の力を受けた弟子たちが、福音宣教にあたって剣を所持していたとか、武力行使したという記述は新約聖書には存在しない。むしろ、彼らの主が自分の命を自分の力や御使いの助けによって守ろうとせず、ただ御言葉の成就を求めたその霊に従い、武力行使による報復手段を択ばず、妨害や迫害に耐えながら、御子の福音を語ったのである。

「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。・・・それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」

「剣を鞘におさめよ。父上が下さった杯、それを飲みほさないでよかろうか!」

 御子は自分の命を守ることよりも、そのときの部分的な正義の顕れよりも、聖書の言葉の成就だけを求めた。その聖書の言葉の成就とは、永遠の神の計画の実現であり、御子イエス・キリストの十字架の死と復活による新しい創造である。

Ⅱコリント5:14-21

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。

19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。

21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

 キリストの十字架の死と復活によって、「新しい創造」と「和解の福音」がもたらされた。そしてその十字架による新しい創造の上には、神の平和と憐みが豊かにある。

ガラテヤ6:14-16

14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。

16 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。 

 邪悪な終わりの時であっても、御子を死から復活させた聖霊の法則によって絶えず新しくされ、御子のくびきを負って御子と共に歩もう。

ローマ12:1-2;18-21

1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 

19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。

21 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

 

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