an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(16)律法なしで生きる者も、律法のもとで生きる者も、

ローマ2:12-16

12 そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。

13 なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。

14 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。

15 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。

16 そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。 

 「異邦人の使徒」として主イエス・キリストによって召命され、パレスチナ地方や小アジア(現在のトルコ)、ギリシャ、マルタ島、イタリアのローマに至るまで、ユダヤ人でもギリシャ人でも未開人(当時ギリシャ語を使ってなかった民族)でも、あらゆる人々に福音を伝えていたパウロにとって、「神の律法の知識のない人々を神がどのように扱うのか」「律法の知識を持たないまま死んでしまった異邦人を神はどう裁くのか」という問題は、宣教という実践的な観点からしても非常に現実的なものだっただろう。

 これだけの情報社会の現代でも、「福音を聞かないで亡くなった先祖は救われるのか、それとも救われないのか」という疑問を持つ人は少なくない。ローマ・カトリックがこれほど根付いているイタリアにおいても、このような疑問を持つ人々がいるのだから(それは多くの場合、神に対する批判的感情から発するものだが)、日本における宣教では切実な問題なのだろう。

 しかし使徒パウロの時代には、二千年近い福音宣教の歴史などなく、キリスト教徒はローマ帝国の属国のユダヤ教という宗教から分裂した人々にしか過ぎなかった。多くの人々は、「キリスト」という名前はもちろん、「イスラエルの神の律法」について具体的な知識を持っていなかった。

 だからこそ、使徒パウロは宣教に行った町のユダヤ人会堂を探し、そこを拠点にイスラエルの神に畏敬の念を持っていたギリシャ人に福音を語り始めるというアプローチをとっていたのだろう。ギリシャのアテネにおける宣教も同じ方法であったが、ただパウロがアレオパゴスで行った伝道は、今回のテーマとも関連があるので引用する。

使徒17:16-31

16 さて、パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。

17 そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた。

18 また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。また、ほかの者たちは、「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。

19 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。

20 君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」と言った。 

21 いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである。 

22 そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。

23 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。

24 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。

25 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、

26 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。

27 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。

28 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。

29 このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。

30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。

31 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。 

 使徒パウロは、「何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていた」アテネの人々に対して、「この世界と、その中にある万物とを造った神」として創造主なる神が、被造物を通して「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」と啓示している。だからこそ、「神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない」とし、「今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる」と聴衆に悔い改めを求め、彼らが真の神の前に個人的な責任をもつことを明示した。

 これは『ローマびとの手紙』第一章で記述していた内容と共通するものである。

ローマ1:19-20

19 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。

20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。 

 つまり創造主なる神自身が、被造物を通してその永遠の力と神性を明らかに示しており、人々は熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見出すことができるので、神を求めず、従おうともしないあらゆる言い訳は通用しない。だから裁きの日が来る前に悔い改めなさい、と訓戒しているのである。

 これは、「福音を聞かないで」死んでしまった人々に、信仰の有無に無関係の救いを約束する「万人救済論」や、死後にもハデスにおいて福音を聞き救われるチャンスが与えられると保証する「セカンド・チャンス論」と、本質的に異なるアプローチではないか。

 勿論、使徒パウロは安易な裁きをしていない。神の律法を持っていてもその知識を持っていなくても、誰一人として律法によっては神の前に義とされない、つまり救われることはできないが、律法を知らない人々の心の中は神以外に知る者はいないことを理解していたからである。

そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。

 アベルからはじめ、セツ、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ヨブなどは、律法の書を持っていただろうか。どのように神を信じ、何を根拠に信仰によって生きていたのか。遊女ラハブはモーセ五書を読んだから信仰を持ったのだろうか。神のわざをその目で直接見たから信じたのだろうか。

 御子を賜ったほどにこの世を愛している父なる神は、限界ある人間にその救いの福音の宣教を委ねたが、それは神自身がその他の手段を持っていない、ということを意味していない。神はもし望むなら、ご自身が善きと思う方法でご自身の栄光を啓示することができるのである。

 しかし最も重要なことは、「福音を聞かないで死んでしまった人々」の永遠の運命に気を取られて(それはもう誰も変えることができないものである)、今、この瞬間に神の福音を聞き、救いを受ける恵みが与えられている私たちの個人的な責任から目を逸らして誤魔化したりしないことである。

 「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる」。だからこそ、律法を知らないで生きている者も、律法のもとに宗教的に生きている者も、イエス・キリストの十字架の贖いによる罪の赦しが絶対に必要なのである。