an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生きているようで実は死んでいる花嫁

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(ソース:These Examples Of Victorian Post-Mortem Photography Are Unsettling.

 この結婚式の準備で忙しくてほとんど寝ていないかのように見える花嫁の写真は、実はビクトリア時代に一般的に行っていた「故人の記念写真」の一例である。まるで生きているかのようにポーズを作り、目を開け、多くの場合、生きている家族と一緒に撮影していた。当時は銀板を使っていたから、動かない被写体はある意味都合がよかったのかもしれないが、現代の死生観からすると考えられない習慣ではないだろうか。しかし当時は、このような写真を撮影することによって、残された家族は愛する人との死別と向き合っていたのだろう。

 私が興味を引いたのは、この「生きているようで実は死んでいる花嫁」の写真の象徴性である。黙示録の中にこのような言葉がある。

黙示録3:1-6

1 サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。 

2 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。

3 だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。

4 しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。

5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。

6 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

 「死んでいる者」がどうやって「目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけ」ることができるのだろうか。「死んでいる者」が、「目を開き」、死にかけている者に「がんばれ!死ぬんじゃない!」と励ますことができようか。「霊的に死んでいる」信仰者が、試練と妥協の狭間で力尽きかけている他の信仰者を励ますことができようか。

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

 もし「実は死んでいる者」に語りかけている方が、御子を死から復活させた御霊でなかったとしたら、それは不可能である。しかし復活の主イエス・キリストは、主の目に死んでいる信者を、そして失望して今にも力尽きそうな信徒をも、決して最後まで見捨てない。彼らに命の言葉を語りかけ、復活の霊によって新たな力を与えてくださるのである。

 死んで葬られ四日も経っていたラザロに対して、主イエスが名指しで語りかけ、命を与えたエピソードは、もう一つの象徴的なエピソードである。

ヨハネ11:33-44

33 イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、

34 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。

35 イエスは涙を流された。

36 するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。

37 しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。

38 イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。

39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。

40 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。

41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。

42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。

43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。

44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

 「だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。」

 「誰から」「何を」「どのようにして」受けたか。また聞いたか。もしあなたが「私はキリスト教を信じている」と言うなら、主なる神の目には、あなたは写真に写っている「生きているようで実は死んでいる花嫁」である。あなたの宗教は神の前で実体を持たないものである。

 しかし、もしあなたが「主イエス・キリストから」「神の命を」「十字架のことばによって」受けたのならば、たとえ今、様々な理由であなたが死んだ者のようであったとしても、その救いの経験を思い起こし、それを守り、主イエスの前に現状を告白し悔い改めることによって、あなたの隣にいる「死にかけている残りの者たち」を力づけることさえできるのである。

イザヤ40:28-31

28 あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。

29 弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。

30 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。

31 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。