「主語」は神の子イエス・キリスト
Ⅰヨハネ1:5-10
5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
2:1-6
1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。
3 もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。
4 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。
5 しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。
6 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。
「どこを」歩いているか。
「どのように」歩いているか。
この聖書の個所は、二つの自問を促す。神の光の中を歩いているだろうか。それとも光が自分の罪や弱さ、傲慢を照らす出すことを憎み、闇の中に留まることを選んでいるだろうか。
ヨハネ3:18-21
18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
二つ目の問いは、「キリストが地上を歩いたように歩いているだろうか」。この問いも信仰者を罪の告白へと導く。もし光に照らされているならば、「はい、私は主イエスのように歩いています!」と公言できるものは誰一人いないからである。
「罪の告白」 真実であり、義と聖であり、立法者であり、裁き主でおられる神だけが、罪たるものが何であるかを定義し、正しく裁くかたである。そしてその方が、告白された罪を赦し、すべての不義を清めてくださる方である。
神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
主語は「神」である。「あの司祭は真実で正しいかたであるから、その罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さる」とは書いていない。私たちの罪を清めるのは、聖職者、牧師、教師、兄弟姉妹ではない。ならば誰に私たちの罪を告白すればよいかは、疑いの余地はない。
そして私たちの罪の告白自体が、私たちを清めるのではない。主語は「御子イエスの血」である。
御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
祈りや断食、巡礼、苦行でもない。これらの如何なる宗教的行為も、私たちの魂を贖いことはできない。なぜなら、「キリストが贖いの供え物である」からである。
彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。
現実的に、罪びとは裁き主でもある神の前に何も持っていくことはできないし、何ももっていない。如何なる善行も徳も私たちを弁護することはできない。父なる神の御許にある助けは、主イエス・キリストだけである。
罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
それは信仰者であっても同じである。信仰者として生きる地上の生活において、私たちが行うことができるように神自身によって備えられた「良いわざ」は、私たちの歩みの前にあって神の前で私たちのために執り成しをすることはない。むしろそれらの「良いわざ」は、私たちの後ろにあり、私たちの歩みについてくるものである。
黙示録14:13
またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。
だからもし信仰者でも自分の行った「良いわざ」「善行」「功徳」に心が囚われているのなら、その人は本当に見るべき方向、否、「唯一見るべき方」を見ていないことになる。