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『ローマびとへの手紙』(5)信仰の従順

ローマ1:5(新改訳)

このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。

 ここにはパウロと彼の同労者が、「キリストによって」、「使徒の務め」を受けたことが書かれている。現代の偽使徒運動のように、自分たちが勝手に使徒であると宣言し合って、やりたいことをしていたわけでなく、「主人」であるキリストによって「選び分けられ、主人の目的のために、送り出された」のである。だからこそ、パウロは「使徒の務め」と共に「恵み」を先行して書いた。パウロは教会を、否、キリスト自身を迫害していたが、神の恵みによって選ばれ、福音を伝えるために神に遣わされたのである。

 そして主イエスがパウロに与えた「使徒の務め」の目的は、どのようなものであったかも、端的に啓示されている。

御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすため

 「御名のために」 パウロが当時の世界で自分の名前を知らしめるためにその「使徒の務め」が与えられたわけではなかった。キリストの尊き名のためである。パウロはただキリストの栄光のためだけに働くように、新しい命を与えられたのである。

 そしてその目的自身とは、「信仰の従順をもたらすため」である。日本語訳はそれぞれ微妙に異なるニュアンスで訳されている。

「信仰の従順をめざすもの」(岩波委員会訳)

「信仰の従順に至らせるように」(口語訳)

「信仰に従順ならしめん」(文語訳)

「信仰による従順へと導くため」(新共同訳)

 文語訳のように「信仰に従順」だと、「信仰が従順の対象」ということになり、この場合、「信仰」は「神の真理」と同義として啓示されている。口語訳や岩波訳のように、「信仰の従順」だと、「従順」があるべき「信仰」の本質として啓示されている。これは逆説的な例で説明できる。残念ながら、表向き信仰的な言動をしながら、本質においてキリストに従順でない例は、誰でも思い当たるものである。聖書にもその偽善に対して戒めの言葉が啓示されている。

マラキヤ1:6a

子はその父を敬い、しもべはその主人を敬う。それでわたしがもし父であるならば、あなたがたのわたしを敬う事実が、どこにあるか。わたしがもし主人であるならば、わたしを恐れる事実が、どこにあるか。わたしの名を侮る祭司たちよ、と万軍の主はあなたがたに言われる。 

ルカ6:46

わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 

ヨハネ13:13-15

13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。

14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。

15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。 

ヤコブ2:14-17

14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。

15 ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、

16 あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。

 よくこのヤコブの言葉を使徒パウロの「信仰のみによる義認論」と対比させ、矛盾していると説く者がいるが、文脈を読めば、ヤコブが「救いに導く信仰の質」に関して言及しているのであって、本質、つまり従順が欠けた信仰は真の信仰でないことを指摘しているのである。そしてパウロは、罪びとが神の前で正しいと宣言を受ける義認は、その信仰のみによって得られることを啓示していているのであり、自分の宗教性を功績として救いを得ようとする行為によらないことを明示しているのである。従ってパウロとヤコブのそれぞれに啓示に矛盾はなく、互いに補完する関係にある。

 新共同訳のように「信仰による従順へと導くため」とすると、信仰が従順に至らせる動因として啓示されている。従順を装い、宗教的に日曜日に教会に通い、牧師や教師が喜ぶように奉仕したとしても、信仰がなければすべては虚しいものである。神が求めているものは、信仰心から湧き上がる心からの従順、恭順である。

へブル11:6

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

  いずれにせよ、使徒の務めの目的は、すべての国の人びとが真の神を知り、その神に喜び従い、その御名のために従順に仕えるようになることである。表層的な宗教性ではなく、「従順」という、人間の意志と感情の深い領域に働きかける働きである。

 決して、神を知らない人々が教会に通うようにして、自分の教会をメガチャーチとして有名にするためでも、魂が奥底を空虚なままで表層的な宗教的行事でごまかすためでも、信徒らを妄信的に献金させ、搾取した富を「祝福」という偶像として仕えさせるためでもない。

 この「信仰の従順」が、『ローマびとへの手紙』の締め、頌栄にも言及されていることで、その重要性が示されている。

ローマ16:25-27

願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、

すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン。

 

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