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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(2)キリスト・イエスの僕そして使徒

ローマ1:1-4(前田訳)

1 パウロ、キリスト・イエスの僕、召されて神の福音のため選ばれた使徒から・・

2 この福音は、神がその預言者たちによって聖書でかねて約束されたもので、

3 そのみ子についてのことです。彼は肉によればダビデの末から生まれ、

4 聖い霊によれば死人たちからの復活によって力ある神の子と定められた方、すなわちわれらの主イエス・キリストです。

 (1)において、前田訳が第一節の原文の語順に忠実であると書いたが、原文において同じ構成である『テトスへの手紙』の冒頭では、なぜか同じようには訳されおらず、岩波委員会訳の中にその意図が見られる。

テトス1:1(岩波委員会訳)

パウロ、神の僕イエス・キリストの使徒、神の選ばれた人々の信仰と、敬度さに一致する真理の認識との〔務めの〕ため、 

(新改訳)

神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ――私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。

 これらの二通の書簡の冒頭の一節を比較するだけでも、大変興味深いことが啓示されている。岩波委員会訳は「神の僕」をイエス・キリストにかけて訳しているが、ほとんどの英訳や新改訳などは、「神の僕」を「イエス・キリストの使徒」と並列させ、パウロのことを示しているよう訳されている。

  • ローマ:パウロ、キリスト・イエスの僕、神の福音のため選ばれた使徒
  • テトス:パウロ、神の僕、イエス・キリストの使徒

 つまりパウロは自分が「キリスト・イエスの僕」であり「神の僕」であること、また「神の福音のために遣わされた者」であり、「イエス・キリストに遣わされた者」であることを自認していたことになる。つまりそれは、御父と御子イエスが自分に対して同じ主権をもつ方であると理解していたことが暗示されている。

 このパウロの強烈な自覚は、ガラテヤ教会への彼の言葉にも表れている。

ガラテヤ1:10-12

10 今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。

11 兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。

12 わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。 

 パウロは、神から生けるキリストの啓示を受け、彼の十字架によって自己に死に、キリストの僕として生まれ変わり、キリストの使徒として復活の御座からこの世に遣わされたのである。

 「僕」もしくは「奴隷」の主権は彼の主人にあり、「僕」は主人の命令に従い、主人が望むこと、喜ぶことを主人の名において実行するために存在する。パウロは自分のことを「キリストの僕」「神の僕」と呼ぶとき、このような概念において自覚していたのである。自分の命の上にある、そのキリストの絶対的主権のゆえに、パウロはたとえどのような人間であろうと、自分の主人として喜ばせることを拒否したのである。勿論、その中には、「自分自身」という手強い存在を含まれていた。だからこそ、主イエス・キリストを喜ばせることができるなら、自分の命さえ惜しくない、とまで宣言できたのである。

使徒20:24

しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。

 よく「パウロはイスラエルの神への信仰から離れて、『パウロ教』をつくった」とか、「イエス・キリストが地上で説いたキリスト教と、パウロのキリスト教は全く違う」などと批判をする者がいるが、パウロの「キリストの僕」「キリストに遣わされた使徒」としての徹底した献身を知ると、それらの表層的な批判は、結局、パウロが絶対としていた「神の主権」「キリストの主権」を否定するものであることがわかるのである。

 またこのパウロの「キリストの僕」「キリストに遣わされた使徒」という自覚を、現代における「新使徒運動」と比較してみると、「自分自身が主人になり、自分のやりたいことをする」「自分自身の欲を喜ばせる」「人の歓心を買う」という、人間本来が持っている性質がそのまま肥大している点が浮き彫りにされると思う。

 

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