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赦しと和解について(2)

牧師の解決能力 : 村上 密 Blog

 「赦しと和解」これほど切実で、また複雑な問題はない。通常は、「一つの教会の中の信徒らの間で起きた問題を、指導者としての立場の牧師が仲裁に入る」というケースが多いが、牧師自身が当事者である場合や、教団や牧師会の中で指導者同士が争っている場合、またその争いの実状を地域教会の信徒らが知っている場合、聖書の教えは力を失い、事態は硬直化して解決の糸口が見つからないまま、心の重荷を抱えこんで、実質のない「礼拝ごっこ」で誤魔化したりしてしまう。

 第三者もしくは仲裁者として「赦しや和解」について語るのは、当事者としてそれを実践していない場合、共感を得られないだけでなく、問題をより複雑にしてしまう。当事者である信徒は、牧師同士や教団の中で争いを解決できない牧師の教えに対して、心の中で「自分たちが赦し合っていないのに、なぜ私たちに赦し合えと言えるのか」と考えるのである。

 信仰の年数に関係なく、信徒ひとりひとりそれぞれ信仰の度合や性格など異なり、責任の所在が明らかになっていない段階で、「主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ3:13)という無条件の赦しを、牧師が一方的に強要するのは無理があるのではないか。救われたばかりの信徒が素直な心で「主イエス・キリストが自分の罪を赦してくださったように」加害者を赦せる場合もあるし、また逆に信仰や知識の不足の故に、それが困難きわまるときが場合がある。また長年の信仰者がその経験豊かさから来る立場や自負心が、その教えの実践を困難にする場合も多い。

 だからこそ、仲裁者としての牧師は、「責任の所在の明確化」と「悔い改め」を和解の重要な礎石として当事者に要求するのが必要不可欠なのだと思う。

ルカ17:1-4

1 イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。

2 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。

3 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。 

4 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。 

 共同体に対して「罪の誘惑を来たらせる者は、災いである」といって神の正義を示し、当事者をいさめ、悔い改めと賠償を強く求めるという難しい役割を、牧師が共同体の中で公平に実践するのを見て、被害者もその牧師を「第三者」「上の立場の人」としてではなく、「自分と同じように重荷を負った兄弟」として信頼することができるようになるのではないだろうか。

 

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