an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「人の子の死」と「イスカリオテのユダの死」(11)追記

ルカ23:39-43

39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。

40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。

41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。

42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。

43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。 

使徒7:57-60

57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、

58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。

59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。

60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。

Ⅱテモテ4:16-18

16 わたしの第一回の弁明の際には、わたしに味方をする者はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った。どうか、彼らが、そのために責められることがないように。

17 しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけて下さった。そして、わたしは、ししの口から救い出されたのである。

18 主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう。栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように、アァメン。 

へブル10:32-34

32 あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。

33 そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。

34 さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。

黙示録1:9-10;17-19

9 あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

10 ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。

17 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、

18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。

19 そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。 

 ユダヤ教祭儀の中で最も重要な過越祭の期間中、ゴルゴタの丘の上で十字架に磔刑された犯罪人の一人といい、エルサレムのユダヤ議会の前で石打の刑を殺されたステパノといい、扇動者として不当に捕らえられ、投獄され、信仰者からも見捨てられ、一人でローマ皇帝の前で信仰の弁明をしなければいけなかった使徒パウロといい、キリストに対する信仰のゆえに同胞からそしられ苦しめられ見世物にされ、獄に入れられ財産を奪われ、最後に殉教していった無名の信徒たちといい、神の言とイエスの証しとのゆえにパトモス島に流刑されていた老使徒ヨハネといい、これらの聖徒たちの人生は、たとい私たち信仰者が、不合理な裁きや孤独、屈辱、激しい苦痛、そして殉教という極限の死に追い込まれたとしても、私たちの主イエス・キリストが信仰者ひとりひとりの魂と共にいてくださり、決して見捨てることはないことを明確に証ししている。

 それは主イエス・キリスト自ら、私たちの救いのために十字架の上で苦しまれたからである。

へブル2:18

主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。

へブル4:14-16

14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。

15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。

16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

  このような憐れみ深い主イエス・キリストを思うとき、イスカリオテのユダの自殺という選択の真の意味や、畏敬の念が生む、後悔だけではない悔い改めの重要性をより深く理解するのである。