an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「人の子の死」と「イスカリオテのユダの死」(9)ミドラーシュの中のメシア論

マタイ27:3-10

3 そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して 

4 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。 

5 そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。

6 祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない」。

7 そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。

8 そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている。

9 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、

10 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。

 イスカリオテのユダが主イエス・キリストを裏切ることによって得た報酬、銀貨三十枚で、陶器師の畑が購入され、その土地は「ユダの裏切り」や「イエスの十字架の死」、「ユダの自殺」などの忌まわしいエピソードの故に、「血の畑」もしくは「血の地所 アケルダマ」と呼ばれるようになった。(「血の畑」がギリシャ語表現ーἀγρός αἷμα agros aimaーであるのに対して、 「アケルダマ」は一般庶民がつかっていたアラム語である。現地の住民にアケルダマと呼ばれていた土地の名前の意味を説明するために、名前をギリシャ語に翻訳している。)

使徒1:18-19

18 彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。

19 そして、この事はエルサレムの全住民に知れわたり、そこで、この地所が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった。「血の地所」との意である。)

 マタイが福音書を書いた時代に、エルサレムの近くには「アケルダマ」と呼ばれる土地があり、その土地は十字架で処刑されたイエスの命の値段、「血の代価」によって購入されたものであった。

 マタイはそれを「預言者エレミヤによって言われた言葉が成就した」と解釈したのである。

 エレミヤ書の中で関連性があると思える唯一の個所は、三十二章のエレミヤが代価を払って土地を買うエピソードである。

エレミヤ32:1-15

1 ユダの王ゼデキヤの十年、すなわちネブカデレザルの十八年に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。

2 その時、バビロンの王の軍勢がエルサレムを攻め囲んでいて、預言者エレミヤはユダの王の宮殿にある監視の庭のうちに監禁されていた。

3 ユダの王ゼデキヤが彼を閉じ込めたのであるが、王は言った、「なぜあなたは預言して言うのか、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはこの町をバビロンの王の手に渡し、彼はこれを取る。

4 またユダの王ゼデキヤはカルデヤびとの手をのがれることなく、かならずバビロンの王の手に渡され、顔と顔を合わせて彼と語り、目と目は相まみえる。

5 そして彼はゼデキヤをバビロンに引いていき、ゼデキヤは、わたしが彼を顧みる時まで、そこにいると主は言われる。あなたがたは、カルデヤびとと戦っても勝つことはできない』と」。

6 エレミヤは言った、「主の言葉がわたしに臨んで言われる、

7 『見よ、あなたのおじシャルムの子ハナメルがあなたの所に来て言う、「アナトテにあるわたしの畑を買いなさい。それは、これを買い取り、あがなう権利があなたにあるから」と』。

8 はたして主の言葉のように、わたしのいとこであるハナメルが監視の庭のうちにいるわたしの所に来て言った、『ベニヤミンの地のアナトテにあるわたしの畑を買ってください。所有するのも、あがなうのも、あなたの権利なのです。買い取ってあなたの物にしてください。これが主の言葉であるのをわたしは知っていました』。

9 そこでわたしは、いとこのハナメルからアナトテにある畑を買い取り、銀十七シケルを量って彼に支払った。

10 すなわち、わたしはその証書をつくって、これに記名し、それを封印し、証人を立て、はかりをもって銀を量って与えた。

11 そしてわたしはその約定をしるして封印した買収証書と、封印のない写しとを取り、

12 いとこのハナメルと、買収証書に記名した証人たち、および監視の庭にすわっているすべてのユダヤ人の前で、その証書をマアセヤの子であるネリヤの子バルクに与え、

13 彼らの前で、わたしはバルクに命じて言った、

14 『万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、これらの証書すなわち、この買収証書の封印したものと、封印のない写しとを取り、これらを土の器に入れて、長く保存せよ。

15 万軍の主、イスラエルの神がこう言われるからである、「この地で人々はまた家と畑とぶどう畑を買うようになる」と』。 

 エルサレムがバビロンの王の軍勢によって包囲され、陥落はすぐそこまで迫っていたのに、主なる神はエレミヤの土地を購入することを命じた。この一見不合理な命令は、七十年に及ぶバビロン捕囚の期間を終えて、主なる神が再び民を憐れんで下さり、民をエルサレムに帰還させるという計画の成就を、神自身が民に対して保証するものであった。

 マタイはこのエレミヤ書のエピソードを「イエス・キリストの血の代価によって購入された土地、アケルダマ」に結びつけ、主イエスによって預言され、やがて成就することになる「ローマ帝国によるエルサレム陥落と民の離散」の後、主は再びイスラエルの民を憐れみ、エルサレムを治めるために再臨することを保証した、と解釈したのではないだろうか。

 しかし、二千年後に生きる私たちには、かなり強引で理解しがたい解釈方法に思えるが、それはバビロン捕囚と離散によって神殿祭儀ができなくなったレビ族が、聖書朗読とその説明を中心としたシナゴーグにおける礼拝をはじめ、そこから徐々に「ミドラーシュ」という独特の聖書解釈法を構築していた史実に関して、ほとんど知識がないからである。

 「ミドラーシュ」は、ヘブライ語の動詞「darash (דָּרַשׁ) 調べる、探る、研究する」から派生した言葉で、歴代誌下13:22と24:27において「注釈」と訳されている。

歴代下13:22

アビヤのその他の行為すなわちその行動と言葉は、預言者イドの注釈にしるされている。

歴代下24:27

ヨアシの子らのこと、ヨアシに対する多くの預言および神の宮の修理の事などは、列王の書の注釈にしるされている。ヨアシの子アマジヤが彼に代って王となった。

 字義的解釈法(ペシャート פשות)とは別に、隠れた意味を探り、読む者の状況に適応させて解説する解釈法である。トーラーのミドラーシュをはじめ、多くの解釈書があり、クムラン写本の中から発見された『ハバクク書註解』や『詩篇註解』などの多くの註解書が、使徒時代には『ミドラーシュ』が普及していたことを証明している。

 勿論、ユダヤ人であった使徒たちも、そのような霊的環境において生きていたので、字義的解釈を超える解釈を適応するアプローチに慣れ親しんでいた。

 非常に理解しやすい一例をあげる。使徒パウロは申命記25:4「脱穀をする牛にくつこを掛けてはならない。」を引用し、字義的解釈を超えて、霊的な解釈を適応させている。

Ⅰコリント9:7-10

7 いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。

8 わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。

9 すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。

10 それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。

 またエジプトの奴隷生活から解放され、荒野を彷徨ったイスラエルの民のエピソードを、「岩」というシンボルを通して、聖霊によってメシア論的視点から解釈した。

Ⅰコリント10:1-4

1 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、 

2 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。 

3 また、みな同じ霊の食物を食べ、

4 みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。 

 福音書記者のマタイも例外ではない。イザヤ7:14や8:8の「インマヌエル」が来るべきメシアであるという、字義的解釈を超えてミドラーシュ的解釈が適応されているのである。勿論、それはマタイが聖霊の霊感によって導かれていたからである。

マタイ1:21-23

21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。 

22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、

23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。 

 http://www.sacred-texts.com/jud/tmm/tmm06.htmには、ラビ・SAMUEL RAPAPORTによって編集されたミドラーシュの中にあるメシアに関する解釈を集めた章があるが、大変興味深い。

 そこには、ゼカリヤ4:7の「大いなる山」がメシアであり、ダビデの子だと書かれている。(キリスト教においては、一般的に「かしら石」がメシアだと解釈する。)

ゼカリヤ4:7

大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる。彼は『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出すであろう」。

 また、ゼカリヤ9:1の「ハデラク」という言葉が、メシアの名称の一つだと解釈している。(The word הדרך (Hadrach), used by the prophet Zechariah (9. 1), is one of the titles of Messiah.)

 またエレミヤ書とゼカリヤ書の中にある「枝」というシンボルが、メシアを指していることが書かれている。(The צמח ('Zemach'), mentioned by Jeremiah (23. 5) and by Zechariah (6. 12) is the Messiah.--Numb.)

エレミヤ23:5

主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う

ゼカリヤ6:12

彼に言いなさい、『万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。

 面白いことに、このラビ自身はイエスがメシアであることを明確に否定しているが、旧約聖書の中に多くのメシヤの啓示があるとする「ミドラーシュ」とその解釈法は否定していないのである。

 故にユダヤ人であったマタイが、聖霊の霊感に導かれて、ゼカリヤ書に啓示されている「悪しき牧者らによって値積られた主の尊き価」と「主イエスの血の代価」を結び付け、「折られた恵みの杖」「エルサレムを守る契約が破棄されたこと」を、「ほふられるべき羊を養うために来られた御子イエスを頑なに信じなかったエルサレムの民に対する裁き」とを結び付けた、と解釈することもできるだろう。

ゼカリヤ11:4-13

4 わが神、主はこう仰せられた、「ほふらるべき羊の群れの牧者となれ。

5 これを買う者は、これをほふっても罰せられない。これを売る者は言う、『主はほむべきかな、わたしは富んだ』と。そしてその牧者は、これをあわれまない。

6 わたしは、もはやこの地の住民をあわれまないと、主は言われる。見よ、わたしは人をおのおのその牧者の手に渡し、おのおのその王の手に渡す。彼らは地を荒す。わたしは彼らの手からこれを救い出さない」。

7 わたしは羊の商人のために、ほふらるべき羊の群れの牧者となった。わたしは二本のつえを取り、その一本を恵みと名づけ、一本を結びと名づけて、その羊を牧した。

8 わたしは一か月に牧者三人を滅ぼした。わたしは彼らに、がまんしきれなくなったが、彼らもまた、わたしを忌みきらった。

9 それでわたしは言った、「わたしはあなたがたの牧者とならない。死ぬ者は死に、滅びる者は滅び、残った者はたがいにその肉を食いあうがよい」。

10 わたしは恵みというつえを取って、これを折った。これはわたしがもろもろの民と結んだ契約を、廃するためであった。

11 そしてこれは、その日に廃された。そこで、わたしに目を注いでいた羊の商人らは、これが主の言葉であったことを知った。

12 わたしは彼らに向かって、「あなたがたがもし、よいと思うならば、わたしに賃銀を払いなさい。もし、いけなければやめなさい」と言ったので、彼らはわたしの賃銀として、銀三十シケルを量った。

13 主はわたしに言われた、「彼らによって、わたしが値積られたその尊い価を、宮のさいせん箱に投げ入れよ」。わたしは銀三十シケルを取って、これを主の宮のさいせん箱に投げ入れた。

 さらにマタイは、バビロンの王に包囲され、破壊と捕囚と離散を目前にしたエルサレムの民に対する証として、エレミヤに土地を購入を命じ、捕囚からの帰還と再建と癒しを保証したことを、「主イエスの血の価によって購入された血の地所」に、多くの離散の時の後にやがて実現する主の再臨とユダヤ人の回心、キリスト千年王国の啓示の保証として関連付けたと考えることはできないだろうか。

 勿論、この私の解釈は、否定的な意見も含めて他の様々な解釈の中の一つにしか過ぎないし、さらに細かく検証していく必要のあるものだと思う。しかし、最初から主張しているように、聖書の中心テーマであり、聖霊の霊感の目的でもある「キリストの啓示」という観点から旧約の預言を解釈すると、マタイが受けていた光によって、また一歩、キリストと十字架の言の素晴らしさに近づくことが許されていると確信する。

 

(10)へ続く