「人の子の死」と「イスカリオテのユダの死」(8)マタイの預言引用
マタイ27:9-10
9 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、
10 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。
「人の子の死」と「イスカリオテのユダの死」(7)エレミヤの預言か、それともゼカリヤの預言かに続いて、この個所の問題を検証するために、『マタイによる福音書』そのものがもっている傾向を調べてみる必要がある。『マルコによる福音書』と比較すると、『マタイによる福音書』は圧倒的に旧約聖書の引用が多い。それは、この福音書が基本的に旧約聖書に精通していたユダヤ人を対象に書かれていたからである。その数多い引用を一つずつ確認することによって、マタイ自身の考え方や表現のプロセスを検証する材料を求めるというものである。
「こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。」という言い回しに似た表現を検索するために、『マタイによる福音書』の中で使われているキーワード、「預言」(単数形と複数形)、「預言者」、「預言者たち」、「書いてある」をすべて確認すると、ある特徴が見えてくる。
引用された旧約聖書の預言に、預言者の名前が示されている場合と、ただ単に、「預言者」と書かれていたり、あるいは特定されていない場合がある。
- 預言者の名前が示されている場合
預言者エレミヤ
マタイ2:17-18
17 こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
18 「叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。
預言者イザヤ
マタイ3:3
預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。
預言者イザヤ
マタイ4:14-16
14 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
15 「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、
16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
預言者イザヤ
マタイ8:17
これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
預言者イザヤ
マタイ12:17-21
17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、
18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。
20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。
預言者ヨナ(ただし、この個所は主イエスが預言者ヨナについて言及しているので、マタイの旧約預言の引用とは性質上異なる。)
マタイ12:39
すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。
イザヤの預言
マタイ13:14-15
14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
15 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。
預言者ダニエル(この個所も、預言者ヨナの場合と同様、主イエスが彼の説教の中でダニエルについて言及しているケースである。)
マタイ24:15
預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
預言者エレミヤ
マタイ27:9-10
9 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、
10 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。
- ただ「預言者」と書かれていたり、特定されていない場合
預言者(イザヤ)
マタイ1:22-23
22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
預言者(ミカ)
マタイ2:5-6
5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
預言者(ホセア)
マタイ2:15
ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
預言者(詩篇記者 アサフ)
マタイ13:35
これは預言者によって言われたことが、成就するためである、「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」。
預言者(ゼカリヤ)
マタイ21:4-5
4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。
5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。
預言者たち
マタイ2:23
ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。
預言者たち
マタイ26:56
しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
(マラキヤ)
マタイ11:10
『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。
(エレミヤ)
マタイ21:13
そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
(ゼカリヤ)
マタイ26:31
そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。
これらの聖句で見えてくるのは、マタイがほとんどの場合、預言者のイザヤやエレミヤの名前を明記しているのに対して、ミカ、ホセヤ、ゼカリヤ、マラキヤなどのいわゆる「小預言者たち」の名前は全く明らかにしていないことである。
これは当時の「聖書」がどのようなものであったかを知ることで、その理由を理解することができる。「聖書(この場合、旧約聖書を指す)」は、『律法(トーラー)』と『預言者(ネビーイーム)』『諸書(ケスービーム)』に分類されているが、その『預言者(ネビーイーム)』は、「後の預言者」と呼ばれる『イザヤ』『エレミヤ』『エゼキエル』と、『十二』『小預言者』『十二預言者』と呼ばれる巻物を構成する十二人の預言者の書(『ホセア書』『ヨエル書』『アモス書』『オバデヤ書』『ヨナ書』『ミカ書』『ナホム書』『ハバクク書』『ゼファニヤ書』『ハガイ書』『ゼカリヤ書』『マラキ書』)によるものである。
『イザヤ書』や『エレミヤ書』、『エゼキエル書』はそれぞれが一巻の巻物であるのに対して、十二人の預言者たちの書は、一巻にまとめらていた。(ちなみのに、このサイトhttp://dss.collections.imj.org.il/isaiahにおいて、死海写本のイザヤ書の巻物、つまりイエス・キリストが地上宣教した時代にシナゴーグで読まれていた巻物に近いものが、スクロールしながら見たり読んだりすることができる。この巻物を見ながら、ルカ四章に記述されている、イエス・キリストにイザヤ書が手渡され、彼がそれを開き、朗読する場面や、使徒行伝八章にある、エチオピア高官がイザヤ書の巻物を読んでいることをイメージすると、大変興味深い。)
私たちが普段読むことができる聖書には、各書のタイトルや章節の番号がついていて、礼拝などで説教者が「イザヤ六章一節」と言えば、手元にある自分の聖書を開き、すぐに聖句を見つけることができる。PCなどを使えば、読みたい書の名前と章句を入力すれば、ページなどめくる必要もなく、一瞬で目の前のモニターで、目的の聖句、しかも様々な翻訳バージョンを同時に確認することができるのである。
しかし当時の羊皮革に手書きで書かれた巻物では、全く勝手が違っていた。特に非常に神聖なもの、かつ高価なものであったゆえ個人的には所有することができず、シナゴーグの中に保管され、礼拝の時に担当の朗読係によって取り扱われていたこと、会衆はそれを聞き、暗記暗唱などしていた事実を考えると、十二人の預言者たちによる十二の書がまとめられ一巻の巻物の中にある預言の引用に、預言者の名前が省略され、聖句だけが引用されたり、また「預言者」とだけ書いて引用されていたとしても、特別奇妙なことではないだろう。マタイが、ミカ、ホセヤ、ゼカリヤ、マラキヤなどの小預言者の名前を省略したのも、同じような背景があったと考えられる。
むしろマタイ27:9-10の場合、「預言者エレミヤによって言われた言葉」と明記してあり、他のゼカリヤ書からの引用では預言者の名前を書いていないことを考慮すると、マタイが「預言者ゼカリヤ」と書こうとして(あるいは書いて)、何かしらの理由で「預言者エレミヤ」になってしまったとする説明は、論拠が不足していると考える。
そこで最もストレートなプロセスだと言えるのは、マタイが実際にエレミヤ書の中のある預言がキリストにあって成就したと解釈し、それを記したということである。そこで問題になるのが、該当する預言はどれか、ということと、ゼカリヤの預言との類似性をどう解釈するか、ということになる。
一つに解釈法として考えられるのが、二つの異なる預言を複合している場合である。例えば、有名なケースがマルコ一章の聖句である。
マルコ1:2-3
2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、
二節の「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。」は、実は上述の『十二預言者』の巻物の最後に書かれていたマラキ書の預言の一節である。
マラキ3:1
「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。
しかし、三節の「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」は、預言者イザヤの巻物、特にギリシャ語LXX訳からの引用である。
イザヤ40:3
呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。
このように福音書記者マルコは、マラキ書から引用しているにも関わらず、実際には「預言者マラキと預言者イザヤの書に」とは書かず、マタイが行ったように、『十二預言者』の中にマラキの名前を省略し、三大預言者のひとりのイザヤの名前だけ明記したのである。
ちなみマルコが『十二預言者』の書から引用しているのは、あと一か所だけで、ゼカリヤ13:7からの引用であるが、マラキの名と同じく預言者の名を明記していない。
マルコ14:27
そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。
次回の記事において、エレミヤ書の預言とその解釈について考察してみよう。
(9)へ続く
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