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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「人の子の死」と「イスカリオテのユダの死」(7)エレミヤの預言か、それともゼカリヤの預言か

マタイ27:1-10

1 夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、

2 イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。

3 そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して

4 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。

5 そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。 

6  祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない」。

7 そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。

8 そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている。

9 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、

10 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。 

 「人の子の死」と「イスカリオテのユダの死」(5)ユダの後悔において、27章の3節から10節までが、イエス・キリストが逮捕され、ユダヤ議会によって冒涜罪に定められ、ローマ総督ピラトに引き渡され、民衆の前で死刑執行の判決を受ける、というキリストの受難の一連の記録の部分に挿入されたものであることを示した。

 その短い挿入部は、三つの要素を語っている。

  • イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダが、「何」をしたか。
  • その裏切りの報酬として受け取った銀貨三十枚が、何に使われたか。
  • マタイの時代に、ユダにまつわる事件が「血の畑」に象徴化され知られていた。

 「人の子の死」と「イスカリオテのユダの死」(6)穢れた金において、その銀貨三十枚は、「木にかけられ呪われた者(イエス・キリスト)」の「血の代価」として、「自殺して呪われた者(ユダ)」が受け取った「穢れた金」として扱われ、「律法に従えば穢れた外国人を葬るための墓地」を購入するために使われたことについて考察した。マタイが福音書を書いた時代には、その土地は「血の畑(ἀγρός αἷμα agros aima)、もしくは「血の地所(Ἀκελδαμά Akeldama)」(使徒1:19)と呼ばれていた。

 そして福音書記者マタイは、祭司長たちが銀貨三十枚で陶器師の畑を購入したことが、旧約聖書の預言の成就であると語っている。

9 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、

10 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。

 この個所を読んで、マタイが成就したとしている預言は、実は預言者エレミヤのものではなく、預言者ゼカリヤの預言ではないか、という意見がある。実際、マタイが記述しているような内容の預言は、エレミヤ書の中には直接見当たらないが、ゼカリヤ書の中に似た記述があるからである。

ゼカリヤ11:12-13(口語訳)

12 わたしは彼らに向かって、「あなたがたがもし、よいと思うならば、わたしに賃銀を払いなさい。もし、いけなければやめなさい」と言ったので、彼らはわたしの賃銀として、銀三十シケルを量った。

13 主はわたしに言われた、「彼らによって、わたしが値積られたその尊い価を、宮のさいせん箱に投げ入れよ」。わたしは銀三十シケルを取って、これを主の宮のさいせん箱に投げ入れた。 

(新改訳)

12 私は彼らに言った。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。

13 主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。

 二つの訳が異なるのは、翻訳のベースにしている写本にバリエーションがあるからで、英語訳聖書やイタリア語訳聖書においても、同じように「陶器師」と「宮のさい銭箱」の二つのパターンがある。

 またマタイが引用した「預言」が、ゼカリヤ書に記述されている「預言」と異なる点があることも、問題をさらに複雑にしている。

ゼカリヤ書

「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。

マタイによる福音書

「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」

 ゼカリヤ書には、「陶器師に銀貨を投げ与えた」とあるが、マタイには「与えた」とあるし、ゼカリヤ書にはそもそも「陶器師の畑」という重要な要素がない。「イスラエルの子ら」という表現もない。

 現在に至るまで、この聖句の解釈に多くの説明がなされてきた。

 例えば、写本の段階で「エレミヤ Ἱερεμίας Hieremias」と「ゼカリヤ Ζαχαρίας
Zacharias」を写し間違えた、という説や、預言者エレミヤが語った預言で、書物の中には書き記されず、口述継承として使徒時代に残っていた、という説などである。しかし、同じ福音書の中でマタイは、預言者ゼカリヤの他の預言を引用しているにもかかわらず、預言者の名前を全く書き記していないので(マタイ21:4-5;26:31)、そもそもマタイが「預言者ゼカリヤ」と名前を明記しようとしたかも疑わしいところである。

 予言:「語られた」と「書き留められた」の説明などは口述伝承説をもとにした説明だが、肝心の「語られた預言」と「書き残された預言」の違いを言及する解釈は、同じマタイによって引用されている数々の旧約聖書の「書き記された預言」が、預言者の名前と共に「言われた預言」として引用されていることから(マタイ2:17-18;3:3;4:14-16;8:17;12:17-21;13:14-15;24:15)、適用することはできない解釈である。

 

(8)へ続く