読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「人の子の死」と「イスカリオテのユダの死」(4)ユダはゲツセマネにいなかった

十字架の言 聖書による検証 聖別(キリストとの交わり)

マタイ26:36-56

36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。

37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。

38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。

39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。

41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。

42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。

43 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。

44 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。

45 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。

46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。

47 そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。

48 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。

49 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。

50 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。

51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。

52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。

53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。

54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

55 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。

56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

  人類史上、御子イエスほど死を恐れた人間はいない。罪の報いとしての死の本質、つまり「生ける神との完全な断絶」が意味することを完璧に理解できる人間は、彼以外にいないからである。

 過越の食事が終わった後、イエス・キリストは弟子たちと共にゲツセマネの園へ行き、迫りくる最後の試練の時のために夜を徹して祈り、その祈りの中で激しく悩み苦しまれた。過越祭の儀式における戒めの霊的意義を体現していたのである。

出エジプト12:42

これは彼らをエジプトの国から導き出すために主が寝ずの番をされた夜であった。ゆえにこの夜、すべてのイスラエルの人々は代々、主のために寝ずの番をしなければならない。  

 福音書は、弟子たちの無力さを隠さず記録している。彼らは何のために何をすればいいか全く理解していなかった。それでも彼らは、イエス・キリストが十字架の死のために苦しみ悶えながら祈っている間、イエスが指定した「祈りの場所」にとどまっていた。

 しかしその弟子たちの中には、イスカリオテのユダはいなかった。彼はちょうどそのとき、御子イエスを捕らえ殺そうと企てていた人々と共にいたのである。

 確かに、疲れて眠り込んでしまった弟子たちとは違い、ユダは目を覚ましていた。しかしそれは、いつ、どうやってイエスを引き渡そうか策略していたからであった。

 何というコントラストであろうか。御子イエスが自分に思いにさえ死に、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」という祈りを捧げ、罪びとのために執り成しをしているとき(ヨハネ十七章 参照)、ユダは御子イエスの逮捕と死刑に加担し、大勢の人々を引き連れて、ゲツセマネの園へ向かっていたのである。

ローマ8:34

だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。 

へブル7:24-25

24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。

25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。 

 主イエス・キリストは、今でも私たちの救いのために、父なる神の御前で執り成しの祈りをささげ続けてくださっている。そして、私たちに「ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」と命じ、主の臨在の中で御霊によって祈り続けるように促している。

エペソ6:18

絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。 

 そのとき、私たちは「どこ」にいるだろうか。「だれ」と共にいるだろうか。「何」をしているだろうか。

 私たちが何かの必要に迫られて思い出したように祈ろうとするとき、主イエスは私たちに「友よ、なんのためにきたのか」と問わなければいけないことはないだろうか。

 私たちはイエス・キリストとどんな関わりをもっているだろうか。

 

(5)へ続く