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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神の後ろ姿

出エジプト33:18-23

18 モーセは言った、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。

19 主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。

20 また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。

21 そして主は言われた、「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。

22 わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。

23 そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」。 

  主なる神は、モーセが御自身の「顔」を見て滅びてしまうことを望まなかった。それゆえ、「手」でモーセを覆い、彼が御自身の「後ろ姿」を見ることができるまで、彼のことを覆い続けた。

 そして主なる神が「手」を取り除くと、モーセの目の前には神が「背中」を向けて立っていたのである。この「神の後ろ姿」は何を意味するのだろうか。

 主なる神はモーセに「背」を向けていた。それは、モーセが御自身の「背中」を見るためであった。主なる神はこの時、金の仔牛の像を造り偶像崇拝にふけっていたイスラエルの民に恐ろしく失望していたモーセの方向を見ていない。全く逆の方向を見ているのである。そしてモーセが御自身の後ろ姿を見ることによって、失望するモーセを見ている神ではなく、その反対の方向を見ている神の視線の方向に目を向けるように導かれた。

 私達は悲しみや失望の中にいる時、行くべき方向を見失い、しばし自分自身ばかりを見て、自己憐憫の罠にはまったり、自分自身を見つめて下さる神ばかりを求め、神自身が「見ている方向」、つまり神の関心、神の計画に目を向けようとしない。

 もし私達の不信仰な状態を神がその栄光をもって「直視」したとしたら、私達の卑しさや弱さや罪深さのゆえに、神は人間を裁き滅ぼすしかないだろう。だからこそ、神は私達をキリストの傷の中に入れ、憐れみの「手」によって覆い隠し、「神の後ろ姿」と「神が見ている方向」を見せることによって、常に希望をもって生きることを望んだのである。

 

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