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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神の本質に内在するキリストの十字架(4)

十字架の言 キリストにおいて

出エジプト33:18-23

18 モーセは言った、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。

19 主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。

20 また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。

21 そして主は言われた、「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。

22 わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。

23 そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」。

 主なる神がそのしもべモーセの「あなたの栄光をわたしにお示しください」というリクエストに対して答えた対応は、「十字架の死のうちに顕れる復活の相」という観点から考察すると非常に興味深い。

 主なる神は、ひとりの人間モーセが、御自身の栄光の顕現をそのまま直視することはできないことを知っておられた。もしそのようなことを試みたら、モーセはその無限の光にその場で自分の罪深さに押し潰されて命を失うことになっていただろう。そこで主なる神は、モーセを岩の上に立たせ、御自身の栄光を顕す時、彼を岩の裂け目に入れ、「手」で彼を覆うことで彼の命を守りつつ、しもべに御自身を啓示することを選ばれた。

 「岩」はイエス・キリストのシンボルであり、「岩の裂け目」とはキリストの死を顕している。キリストの死を通して、信仰者はキリストの中に「バプタイズ」され、キリストの体の一部となるのである。そしてキリストの死を通して、神のパーソンの栄光の啓示を受けるのである。

 「わたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見る」私達が「キリストの死のうちに顕れている神の命」について、何かしらの霊的知識があるとするならば、それは神の一方的な恵みによる。「わたしが手をのけるとき」神は望むなら「手」でそのまま覆い続け、御自身の栄光を啓示しないこともできるのである。

 しかし神はその恵みによって、私達がその啓示を受け入れられるタイミングで「御手をのけ」、キリストの傷の中から神の命を啓示してくださるのである。

 

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