an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神の本質に内在するキリストの十字架(3)

神の本質に内在するキリストの十字架(1) - an east window

神の本質に内在するキリストの十字架(2) - an east window

 これらの二つの記事を通して、「神の本質に内在するキリストの十字架の死の相」を考察したが、過去にも「復活したキリストのうちの啓示されている十字架の相」というテーマで記事にしている。

栄光の中に啓示されている十字架のしるし - an east window

屠られた子羊の啓示 - an east window

 今回は、「キリストの十字架における復活のいのちの相」について記事にしてみたい。

ルカ23:44-46

44 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。

45 そして聖所の幕がまん中から裂けた。

46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。 

  この時、イエス・キリストの肉体は十字架の木を打ち付けられ、身動きできない状態であった。忍耐と憐みのよって三年間導き教えてきた弟子達は彼を見捨てていた。

太陽さえその光を失い、御子は人々の罵声と暗闇の中で、人類の全ての罪に対する律法の呪いを背負って苦しんでいた。

ガラテヤ3:13

キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

 御使いらの励ましの声もなく、父なる神も完全に沈黙していた。その断絶は絶望的にリアルで、イエスが神に見捨てられたと自覚するほどであった。

 マタイ27:46

そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

  しかしこのような絶望的な苦悩に閉じ込められ、あらゆる重圧に押しつぶされ、身動きとれない状態にいながら、イエスは神のことを「父よ」と呼び求め、「わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫び、父なる神に対する絶対的な信頼を示した。このイエスの叫びは、神から来る霊の最も根源的な性質を顕している。つまり「自分が父なる神に属していること」そして「父なる神は愛であり、義であり、恵みに満ちた方であり、神の霊はその方のうちに子としての安息を与えてくれる」ということである。それはまるで、母親の両手のうちに安らかにいる乳児の命の様に純粋な信頼に満ちており、「無から有を生み出す神」の霊として力と生命に溢れている。

 そして全ての罪びとは、自分の罪の重荷で身動き取れない程苦しむとき、同じ御子の霊によって、御子と一体化し、御子のように「父よ」と呼び求め、自分の魂の全てを御手に委ねる信仰が与えられるのである。

ザカリヤ12:10

わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。

  恵みと祈りの霊とは、御子の復活と昇天によって地上に遣わされた聖霊であり、その聖霊によって、罪人は「十字架の上で刺された独り子」と一体化するのである。

ガラテヤ2:19-20

19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 

 

(4)へ続く