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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

最悪の事態

緊急時訓練・ターニングポイント 15 2015.6.3|オリーブ山便り

 危機とその先を見据えて、最悪の事態に備えることは、決してネガティブなことではない。逆に強さであると筆者はかねがねイスラエルから学んでいるところである。

 信仰者にとって「最悪の事態」とは何だろうか。病気、失業、死別だろうか。これらのことは、信仰の有無にかかわらず全ての人の人生に起こり得ることである。神を信じる者にとって「最悪の事態」とは、信じている神が現実には存在せず、全てが主観的な思い込みに過ぎないという事態である。人生の全ての基礎であり、命の泉だと確信している聖書は、この世界にある数多くの本と同様、否、むしろ無を有とする偽りの書となる(究極的には、全てが相対化され虚無となるので、「偽り」という概念すら無意味になるのだが、、、)。

 そして「最悪の事態」によって信仰者が失うものは何だろうか。信仰者であることよって失う物質的富や社会的地位の損失だろうか。これらのことは、信仰の有無とは関係なく、ある人は獲得し、多くの人はあらゆる対価を払う努力にもかかわらず獲得することはない。そして全ての人が、死と共にその全てを失う。

 もしくは、「幻想に一度しかない人生を浪費した愚か者」と見做されることだろうか。しかし、絶対的な価値観が存在しない世界で、物質的生命が終ったら全てが無となる前提における「人生の貴重さ」とは何だろうか。「神が存在する」という前提を基に全てを費やした生き方と、「神はいない」という前提を基に全てを費やした人生が、究極的に等しく無であるならば、人生の価値を比較し、一方が他方より価値があると判断する根拠は存在しない。「信仰者にとって最悪の事態」において、「最悪」というと価値は存在せず、全ての価値が同様に無に帰する。

 一方、神を信じない者にとっての「最悪の事態」とは何だろうか。それは、「神は存在しない」と信じ、その前提を基に絶対的価値観を認めず、人生の全てを自分の好きなように費やした後に、全ての所有物と功績を地上に残し、裸で「存在しないはずの」絶対者の前に一人で立たなければいけなくなることである。無に帰するはずの自意識が、永遠の有の中、しかもあらゆる善を失った不変の有の状態で、無制限の孤立に生きるのである。愛も調和も光も時間も空間もない状態に放棄される。それは、究極的な意味で「最悪の事態」である。その状態を変えようとしても、変えることができる要素が存在しない、まさに「永遠の刑罰」である。

マタイ25:29,30

29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。 

 「持っているものまでも取り上げられ」全てを失った状態、「外の暗い所」「泣き叫んだり」「歯がみをしたり」する状態。これが神を信じない者にとっての「最悪の事態」である。

 結論として、信仰者には「最悪の事態」とは究極的には存在せず、逆に不信者にはそれが永遠において存在するのである。

ホセア14:2

あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、「不義はことごとくゆるして、よきものを受けいれてください。わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。 

アモス4:12

「それゆえイスラエルよ、わたしはこのようにあなたに行う。わたしはこれを行うゆえ、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」。 

 「最悪の事態」を想像し、それに対して的確に備えること。それはネガティブどころか、全ての人間が絶えず為すべき不可欠な霊的「訓練」である。

 

追記:

 結果的に信仰者にとって、「最悪の事態」という論点に関しては、「神は存在する」「神は存在しない」という二元論の文脈では議論が成り立たず、「神は存在する」という唯一の文脈でしかありえないのである。

 だからこそ、信仰者が恐れるべきことは「無神論」ではなく、「神が存在する」と知りながら「存在しないかのように生きること」であり、「神ではない存在を神とする意思」である。

 それはまさに「サタンの本質」である。

 

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