an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

罪人のかしら

 「悪」と「自分ではない何者か」とを同一化し、「敵」「悪者」というカテゴリーを生み出し、そのカテゴリーを精神的・物質的に攻撃することによって自分の立場を正当化し、自己の目的を遂行し、利益を守る。

 これはあらゆる文化の中で、歴史を通して現在に至るまで人間が残してきた行動パターンである。意図的にこれを悪用する人間がいて、そして大衆のほとんどは無抵抗に、そして不可避にその流れに流されていく。第二次大戦時に行われたことにスポットがあてられるが、人類史の中では類似のジェノサイドは数多くある。

 宗教の領域でも、それは決して例外ではない。否、むしろ「真理」や「善悪」を扱うが故、その歪んだ影響はより根が深いと言える。

 「偽り者」「敵」「悪者」をあぶり出すことが、私達を「正しい者」「聖い者」にするのではない、ということを、心の刻み込む必要がある。「カルト」「異端」と叫び、誰かを指さすことが、私達を神の前で義とするわけではないことを忘れてはいけない。悪を指摘することは必要不可欠であるが、その指摘した悪に関して、私達自身が絶えず省察と悔い改めの必要な存在であることも、否定しようのない事実である。

Ⅰヨハネ1:8-10

8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。

9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。 

2:1,2

1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

 地上に生きる誰も、過去に「罪を犯したことが無い」とも言えないし、現在の自分には「罪がない」とも言うことができない。

ヤコブ3:2

わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。

 使徒パウロは、イエス・キリストを信じる前の自分を、「神をそしる者」「迫害する者」「不遜な者」と表現したが、手紙を書いた現在の自分に関しては、「罪人のかしら」と言い切っている(現在形である)。

Ⅰテモテ1:13-15

13 わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。

14 その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。

15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。 

 私も使徒パウロのように、自分に示された「神の限りない寛容」に対して、唯一の神を褒め称え続ける者でありたい。

Ⅰテモテ1:16-17

16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。 

17 世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。