an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(50)ベールで身を覆い、天幕に入ったリベカ

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 ネゲブの荒野

創世記24:62-67

62 さてイサクはベエル・ラハイ・ロイからきて、ネゲブの地に住んでいた。

63 イサクは夕暮、野に出て歩いていたが、目をあげて、らくだの来るのを見た。

64 リベカは目をあげてイサクを見、らくだからおりて、

65 しもべに言った、「わたしたちに向かって、野を歩いて来るあの人はだれでしょう」。しもべは言った、「あれはわたしの主人です」。するとリベカは、被衣で身をおおった。

66 しもべは自分がしたことのすべてをイサクに話した。

67 イサクはリベカを天幕に連れて行き、リベカをめとって妻とし、彼女を愛した。こうしてイサクは母の死後、慰めを得た。 

 サラが埋葬されたヘブロンのマクペラから100km近く南下し、イシマエルの母ハガルが主なる神と出会った井戸がある土地ベエル・ラハイ・ロイ(創世記16:13,14参照)を通ってネゲブに移住していたイサクは、ある夕暮れ、一人で黙想していた(残念ながら文語訳以外の和訳には、そのニュアンスが訳出されていない。文語訳は63節を「しかしてイサク黄昏に野に出て默想をなしたりしが目を擧て見しに駱駝の來るあり」と訳している。)

 聖書はイサクが野で何について黙想していたかを明らかにしていない。ただその情景は実に美しい。彼が思いに耽っているちょうどその時、はるか遠くの土地から花嫁となるリベカが現われたのである。そしてリベカもイサクのことを見つけ、自分の花婿となる人だと知った時、当時の習慣によってリベカは顔をベールで覆った。

 そしてイサクは、自分の父の僕エリエゼルから主がどの様に導き、リベカを出会い、自分のもとに連れてくることになったか、説明を受けた。そしてリベカをサラの天幕に連れて行った(ここでは、新改訳や新共同訳が、天幕が亡き母サラの天幕であったことを訳出している。)

 非常に意味深い点は、リベカはベールで顔を覆っていたので、イサクは実際に妻として迎え入れるまで、リベカの顔をみることはなかったことである。つまり、イサクはリベカの外観的美しさ(創世記24:16参照)に見て彼女を愛したのではなく、両親や自分が信じている神が不思議な導きでリベカを備えてくださった証しを、エリエゼルの口から直接聞き、彼女が神から与えられた花嫁であると信仰によって受け入れたのである。

 これもまたキリストが花嫁としての教会を、その物質的な富や美徳のゆえに愛しているのではなく(キリストは大理石や金銀で飾られた建物を喜ぶだろうか。私達の自己満足に優しく微笑むだろうか。)、むしろ不完全で罪深いにもかかわらず、御自身の十字架の死によって受け入れ、愛し、清めてくださっていることの予型である。