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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

それを行うなら(2)

ヨハネ13:12-17

12 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。

13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。

14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。

15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。

16 よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。

17 もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。 

 「主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである」。

 信仰者はイエス・キリストが救い主であり、また教師であるということを知っていて、それを公に証しするものである。 またその自分の主イエスが、自分の「足の汚れを洗い落として下さる」、つまり地上の日々において罪で汚れてしまう心を、十字架の犠牲の死によって流された尊き血によって絶えず清めてくださる、ということも知っている。しかし、その知識を基に、「互に足を洗う」という実際になすべき行動を起こすのに、時に多くの内的抵抗を感じる。

 「もしこれらのことがわかっていて」。主イエス・キリストの前提条件は極度にシンプルである。主は「どれだけ知らなければ」「どれだけ理解しなければ」を問うてはいない。実際、どれだけ主イエスのことや彼のわざについて知れば、「互いに足を洗う」ことができるようになるのだろうか。神学校を卒業して牧師や教師にならなければできないことだろうか。勿論、私は無知や怠惰が悪だと思っているが、自分の中に、また様々な教会の中にある意識のズレがあり、またそのズレが私達の成長を妨げているのではないか、という危機感をもっている。

 先日、ある兄弟と公園で話していて強く感じたことがある。その兄弟は、自分の弱さのゆえに他の人を励ます状態ではない、と告白していた。確かに誰でも心配ごとや不安で弱っている時に、他の人と共にいて励ますことは無理だと思ってしまうものだ。ただ、私達は他人の心の状態など十分に把握できないし、ましてその心を励ますのにどれだけ自分が強くなければならないか、否、そもそも本当に自分達が考えるように強くなければいけないかどうかも分からないのである。

 むしろ聖書の真理は私達にこう啓示している。

Ⅱコリント12:9-10

9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

 「ありのままの自分でいい」とか、「あきらめが肝心」と言っているのではない。主がこの個所で語る「弱さ」とは、もっと根源的であり、古き自己の十字架の死を意味している。その十字架により、「ありのままの自分」(善い部分も悪い部分も含めてすべて)が十字架に架けられ、地上的・人間的希望がすべて終わり、復活したイエス・キリストの命が神の力によって顕れるのである。

 

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