an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(44)ナホルからの知らせ

創世記22:20-24

20 これらの事の後、ある人がアブラハムに告げて言った、「ミルカもまたあなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。

21 長男はウヅ、弟はブズ、次はアラムの父ケムエル、

22 次はケセデ、ハゾ、ピルダシ、エデラフ、ベトエルです」。

23 ベトエルの子はリベカであって、これら八人はミルカがアブラハムの兄弟ナホルに産んだのである。

24 ナホルのそばめで、名をルマという女もまたテバ、ガハム、タハシおよびマアカを産んだ。 

 イサクの犠牲のエピソードの後、アブラハムはイサクと共にベエルシバに帰り、そこで生活していた。そしてある日、八百キロメートル近く離れたユーフラテス川沿岸から、アブラハムの弟ナホルに関する知らせを受けた。アブラハムが父テラと生まれ故郷を出発してから、おそらく四十年以上会っていない兄弟の家族の近況に関するものであった。ナホルについては、創世記十一章に記述がある。

創世記11:26-31

26 テラは七十歳になってアブラム、ナホルおよびハランを生んだ。

27 テラの系図は次のとおりである。テラはアブラム、ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ。

28 ハランは父テラにさきだって、その生れた地、カルデヤのウルで死んだ。

29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライといい、ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘である。ハランはミルカの父、またイスカの父である。

30 サライはうまずめで、子がなかった。

31 テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。

 テラには三人の息子、アブラム(アブラハム)、ナホル、ハランがいた。アブラハムは異母妹のサライ(サラ)と、ナホルはミルカとそれぞれ結婚し、ハランも結婚してロト、ナホルの妻となるミルカ、そして妹のイスカを授かった。しかし、何らかの理由でハランはカルデヤのウルで死んでしまった。

 また聖書には、父テラがカナンの地に移住するためにアブラムとその妻サライ、そして孫ロトを連れてカルデヤのウルを旅立った時、なぜナホルが同行しなかったかを明らかにしていない。とにかく、アブラハムとナホルは、カルデヤのウルで離ればなれになった。

 そしてアブラハムは、四十年近い歳月を経て、ナホルの家族の知らせを受けたのである。それはナホルと妻ミルカの間に八人の子供ウヅ、ブズ、ケムエル、ケセデ、ハゾ、ピルダシ、エデラフ、ベトエルが与えられ、さらにそばめ(めかけ)ルマとの間にも、四人の子供テバ、ガハム、タハシおよびマアカが生まれたという知らせだった。ナホルには、合計十二人の子供が与えられていたのである。

 この知らせを受けたアブラハムの心境を想像してみてほしい。ナホルには十二人もの子供が与えられているのに対して、アブラハム自身は二人だけ、しかもその一人イシマエルは彼の母ハガルと共に追い出されていたので、実質的にイサク唯一人だったのである。当時の一般的なメンタリティー、つまり「子供が沢山いることは神の祝福のしるし」「子供がいないことは神からのわざわい」と見做す考え方によれば、アブラハムはナホルに対して嫉妬や劣等感を感じてもおかしくはなかっだだろう。

 しかし実際は、それがたった一人の子だったとしても、アブラハムにとってはイサクは「神による約束の子」であり、しかも神の力によって「生き返して渡された」祝福の子だったのである。

へブル11:19

彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

 ここに信仰者のための大切な教えがある。父なる神にはただ一人の愛する子、死から復活し栄光の座につかれた御子イエス・キリストがおられる。彼は父なる神に愛され、彼だけが完全に父なる神の心を喜ばすことができる方である。その御子のうちに、罪びとは信仰によって「身を隠す」ことができるのである。そして父なる神の御子に対する愛によって、私達罪びとさえもイサクのように「神の約束の子」として生きることができるのである。

 そしてその神の愛によって神の子とされ、愛の中に生きている信仰者は、たとえ物質的や社会的なものをほとんど何も持っていなくても、御子イエスが心の中で生きていること、そしてその御子の臨在によって自分も「約束の子」として造り変えられたことに、心の深い充足感を感じるのである。これは、人が地上で受けることができる最大の祝福である。

Ⅰテモテ6:3-7

3 もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、

4 彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、

5 また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起るのである。

6 しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。

7 わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。

8 ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。

コロサイ2:9,10a

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、

10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。

 勿論、信仰者も貧困や孤独、他人との比較、社会の不公平や不義に苦しみ悩む事は少なくない。しかし、如何なるものも信仰者の心から御子イエス・キリストを奪い去ることはできないのである。

ローマ8:35-39

35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。

36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。 

37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。

38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、

39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。