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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(40)孤高な葛藤

創世記22:6-8

6 アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。

7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。

8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。 

 この短い三節の記述の中で、「ふたりは一緒に行った」という表現が二度も使われている。アブラハムと一人息子イサクは、確かに一緒に歩いていた。しかし父アブラハムの心は、孤独の中で凄まじい葛藤に苦しんでいたはずである。まだ幼い息子に、これから行わなければいけない神の命令を語れるはずもなく、ただ一人、沈黙の中で戦っていた。

 妻であり、イサクの母であり、同じ神を信じる姉妹であったサラにも語らずに出発したアブラハムは、孤独であった。もしサラに語っていたら、おそらく神の命令に従うことはできなくなると判断したのだろう。確かに人間的観点から言って、この状況で夫の「理不尽な行動」を引き留めない一児の母としての女性はいるだろうか。主なる神がサラに対して個人的に語りかけなかった所を見ると、アブラハムの判断は正しかっただろう。彼は一人でこの重荷を負わなければならなかったのである。

 誰とも共有できない激しい葛藤。一番親しい人にも打ち明けられない苦悩。神の性格すら疑ってしまいかねない状況で、アブラハムは一人苦しみ、耐え抜いた。そして聖書の記述は、そのアブラハムの苦悩に関して一言も言葉を費やしていない。

 人となり地上に来られた御子イエス・キリストの十字架の苦しみに関して、歴史上多くの言葉や視覚的描写が使われてきた。肉体的苦痛を強調したもの、精神的な苦難に触れたもの、様々な試みが為されてきた。しかし、人間の最も崇高な精神をもってしても全く理解しえない領域で、主なる神が罪びとの救いのために苦しまれたことは、決して忘れてはいけない真理だと思う。

 父なる神が罪びとの罪を赦し、その魂を救うためには、愛する御子を犠牲にしなければならなかった。その父なる神の孤高な葛藤に関して、聖書がむしろ寡黙であるという事実を、畏敬の念をもって受け入れ、心から感謝をしようではないか。