an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

サラの美しさ

創世記12:14,15

14 アブラムがエジプトにはいった時エジプトびとはこの女を見て、たいそう美しい人であるとし、

15 またパロの高官たちも彼女を見てパロの前でほめたので、女はパロの家に召し入れられた。

創世記20:1-3

1 アブラハムはそこからネゲブの地に移って、カデシとシュルの間に住んだ。彼がゲラルにとどまっていた時、

2 アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人をつかわしてサラを召し入れた。

3 ところが神は夜の夢にアビメレクに臨んで言われた、「あなたは召し入れたあの女のゆえに死なねばならない。彼女は夫のある身である」。

 引用した二つのエピソードは、アブラハムの妻サラがその美しさ故にエジプトの王パロやゲラルの王アビメレクに気に入られ、妻として迎え入れられそうになった事件が記述されている。しかし現代のメンタリティーからすると、理解できないエピソードである。何しろ、パロがサラを妻として迎え入れようとした時、サラは少なくとも六十五歳(サラはアブラハムより十歳年下だった)で、さらにアビメレクの時には九十歳になっており、月経も終わり、子供を産める体ではなかったからである。

 しかしパロもアビメレクも、サラのうちに、若い女性に与えられている肉体的・性的魅力とは全く異なる、不思議な「美しさ」を見出していたのである。彼らが妻として迎え入れようとしたということは、性別を超えた魅力というより、肉体的条件を超えた「ひとりの女性」としての美しさ、つまり人間を男と女に創造した神が与えた、女性本来の美しさだったと想像する。それは、真の神を畏れていなかった彼らの価値観をはるかに超える、静かに光輝くような魅力だったのだろう。

 この外面に反映される「内面の美しさ」について、新約聖書には明確な啓示が与えられている。

Ⅰペテロ3:1-6

1 同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、

2 あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。

3 あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、

4 かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。

5 むかし、神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも、このように身を飾って、その夫に仕えたのである。

6 たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。 

 勿論、この課題は女性だけの問題ではない。永遠の神を畏れることなく、外面性や所有できるものばかり気にする時代では、男性も「美しく老いる」ことがとても困難になっているのではないだろうか。