an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

御子の復活か、ダイナマイトか

ローマ1:16

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。

  D.A. Carson著『Exegetical Fallacies』の伊訳を読んでいるが、非常に興味深い内容である。特に上述の聖句の解釈におけるよくある問題点の指摘を、自分なりに咀嚼した形で共有したい。

 この聖句において「力」と和訳されているギリシャ語は「DUNAMIS」であるが、この単語から派生する英語として、「DYNAMITE ダイナマイト」がある。その強烈な爆発力のイメージが一般的にも判り易いので、多くの説教者によって「福音は、神のダイナマイトだ」などという紋切型の表現が使われてきた。読者の中にも実際にそれを聞いたりしたことがある方も多いのではないだろうか。

 しかし、このような感覚にダイレクトに訴えかけるような表現は、それがどんなに効果的であろうとも、実際に使徒パウロが伝えようとしていた内容とは異なるイメージを伝達してしまう危険がある。実際、使徒パウロが『ローマ人への手紙』を書いた時には、決してダイナマイトの破壊的爆発力のことを想像していたのではないからである。その理由はごく単純で、彼の時代にはダイナマイトが存在していなかったからである。(ダイナマイトは、あの『ノーベル賞』の名の由来であるノーベル博士によって1875年に発明されたものである。)

 むしろ「神の力」と書いたときにパウロの念頭にあったのは、御子キリストを死から復活させた力であり、音も立てず、人目を引くことはないが、一瞬にして全てを永遠の命の中に包括し、新しいものに造り変えてしまう、まさに神の絶大な力のことである。

ローマ1:2-4

2 この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、

3 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、

4 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。

  使徒パウロは『エペソ人への手紙』の中で、単純なシンボリズムで表現しきれないことを自覚しているかのように、色々な言葉を使って何とか伝えようと努力しているものの、最終的には祈りよって与えられる聖霊の啓示が最善の方法であることを暗示している。

エペソ1:19-21

19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、

21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

 「キリストの死からの復活」は、「ダイナマイト」に比べると感覚的に訴える力はあいまいで、ビジュアル的にも弱々しく思えるかもしれない。しかし、聖書の啓示に対して誠実であろうという信仰者、特に御言葉を伝える任務を託されている者は、自分のイメージで神の言葉に「色を付加える」ことを嫌み、自分に死に、祈りの中で静かに聖霊による光にの下にひざまずくことを選ぶであろう。