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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(30)ゾアルの外の誘惑

創世記19:17-22

17 彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。

18 ロトは彼らに言った、「わが主よ、どうか、そうさせないでください。

19 しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなるいつくしみを施されました。しかしわたしは山まではのがれる事ができません。災が身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。

20 あの町をごらんなさい。逃げていくのに近く、また小さい町です。どうかわたしをそこにのがれさせてください。それは小さいではありませんか。そうすればわたしの命は助かるでしょう」。

21 み使は彼に言った、「わたしはこの事でもあなたの願いをいれて、あなたの言うその町は滅ぼしません。

22 急いでそこへのがれなさい。あなたがそこに着くまでは、わたしは何事もすることができません」。これによって、その町の名はゾアルと呼ばれた。  

 滅びの町ソドムと「救いの山」の間に位置し、ロトの救いのために指定された町ゾアル。「小さい」という意味の町。ソドムとゴモラほど不義と放縦に満ちていなかったにしろ、神の恵みによってのみ滅びから免れた町。

 しかしロトは不安と猜疑心と恐れによって、その「恵みの町」「小さな共同体」の中に住むことを避けた。

創世記19:30

ロトはゾアルを出て上り、ふたりの娘と共に山に住んだ。ゾアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘と共に、ほら穴の中に住んだ。 

 ロトは御使いの「その町は滅ぼしません」という約束の言葉を信じ切れず、自分で自分の身を守ろうとしたのである。

 この悲しいエピソードは、今生きている私達にどう適用できるだろうか。信仰者は神の愛に対する信仰によって罪の赦しを受け、新しい命による歩みを始めるが、その道は決して平坦な道ではない。多くの誘惑が待ち構えている道でもある。為すべきことも全能の神の力によって為し得ることも知りながらも、妥協によって自分で境界線を引いた「小さな世界」のなかで、教会に通うことでかろうじて信仰を保っているケースも少なくないではないだろうか。しかしそのような私達に対しても、主なる神は忍耐深く、私たちを導いてくださる。

 だがそのようなときに働く誘惑は、私達が信仰によって歩み始めたことを忘れ、自分の力で選択し、歩もうとすることである。神の愛に対する信仰から離れてしまうため、自分自身の状態に意識が集中し、心の中に不安が生まれる。そしてそれは将来に対する不安や恐れに膨れ上がり、自分の判断でその不安を解決しようとする「洞穴」に私達を陥れる。その不安と猜疑心と孤独の洞穴の中でもがき、労するが、結局何の解決も得られない。

Ⅰヨハネ4:18

愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

 キリストの十字架に示された愛は、永遠であり完全である。時間や環境によって変化することはなく、どのような状況にあろうと信じる者を守り、導き、永遠の救いへと至らせる。その完全な愛があるからこそ、私達の歩みは「御霊で始めたのに肉で仕上げる」というものではなく、「信仰に始まり信仰に至らせる」ものなのである。

ローマ5:1-8

1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。

2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。

3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、

4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。

5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。

7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。

8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 

 

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