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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(20)アブラハムの旅立ち

創世記11:26-31

26 テラは七十歳になってアブラム、ナホルおよびハランを生んだ。 

27 テラの系図は次のとおりである。テラはアブラム、ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ。

28 ハランは父テラにさきだって、その生れた地、カルデヤのウルで死んだ。

29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライといい、ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘である。ハランはミルカの父、またイスカの父である。

30 サライはうまずめで、子がなかった。

31 テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。 

創世記12:1-4

1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。

2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。

3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。

4 アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。 

 旧約聖書における信仰者の代表として、ダビデ王と共に必ずその名があげられる人物は、アブラム(アブラハム)である。セムの子孫の父テラに連れられ故郷カルデヤのウルからハランの移住していた彼は、七十五歳の時に主なる神の召しに応じ、父をハランに残し、妻サライと甥ロトを連れて、カナンの地へと旅立った。

 聖書がアブラムの年齢を記録していることは、行間に隠されている背景を読み取る材料になっている。アブラムとサライはこの年齢においても、子供が与えられていなかった。アブラムの系図に顕れている彼の先祖のリストと比較しても、七十五歳で跡取りがいなかったことは、当時のメンタリティーからしても精神的に相当厳しいものであったことが想像できる。

 以下は、ノアの息子セムからアブラムに至る系図の中から(創世記11:10-26)、それぞれが長子を授かった年齢とその後生きた年数、そしてそれぞれの享年をリストアップしたものである。

  • セム:100歳(500年)享年600
  • アルパクサデ:35歳(403年)享年438
  • シラ:30歳(403年)享年433
  • エベル:34歳 (430年)享年464
  • ぺレグ:30歳(209年)享年239
  • リウ:32歳(207年)享年239
  • セルグ:30歳(200年)享年230
  • ナホル:29歳(119年)享年148
  • テラ:70歳(165年)享年205

 このリストを見ると、大洪水の後に徐々に寿命が短くなっていった推移が読み取れる。特にバベルの塔の事件で、当時の人々が各地に散って行った民族移動の時代であったぺレグの世代に、寿命が大幅に下がっている点は興味深い。またテラの父ナホルが相対的に短命であったこと、テラが自分の次男にナホルという名をつけたこと、そして故郷ウルからハランまで移住したことは、ウルの町の環境に変化が起きたか、家族に大きな問題が起きたことを暗示している。

 大洪水を経験したセムと、テラを除くと、大体三十歳近くの年齢で長子を授けられていることがわかる。だからアブラムが七十五歳になった時点で跡取りがいなかったという事実は、相当アブラハムの心にプレッシャーを与えていたと考えられる。実際、移住先のカナンの地のおけるアブラムとサライの言動を読むと、彼らがその重荷から解放されるために様々な解決手段を捜していることが理解できる。甥のロトを連れて行ったことや、ハランからカナンまでの道中のダマスコで奴隷エリエゼル(その名は「神は私の助け」という意味)を買ったことも、そのことを暗示しているのかもしれない。

創世記15:2-3

2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。

3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。 

 このように読み込んでいくと、主なる神の「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」という召しと、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」という祝福の約束が、如何に「突拍子もない」ことであったか、またそれらの神の言葉に信じたアブラハムの選択が、如何に信仰に満ちていたかに心を動かされる。勿論、ロトやエリエゼルのことでも推測できるように、アブラハムの信仰は完璧には程遠いものであった。時には不安に襲われ、「神の時」を待てずに解決策を求めたりもした。それでも確かに、アブラハムは信仰によって神と共に一歩一歩歩んでいたのである。(関連記事:アブラハムの祭壇 - an east window

へブル11:8-10

8 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。

9 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。

10 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。 

 このアブラハムの旅立ちは、父なる神の永遠の計画を成し遂げるために、天の栄光から「離れ」、「示された土地」、つまり罪に奴隷として呪いの中で苦しんでいた人々の所へ、自ら進んで「下って来てくださった」御子イエス・キリストを予示している。

へブル10:5-7

5 それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。

6 あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。

7 その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。

へブル2:14-18

14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、

15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。

16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。

17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。

18 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。  

 この御子が「示された土地」に人として来られ、十字架の贖罪という神の計画に従って下さったことによって、御子の祝福が信じる者の上に豊かに注がれるようになったのである。