an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(7)園の木の間に身を隠したアダム

創世記2:25

人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

創世記3:6-10

6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。

10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

 罪を犯す前のアダムとエバは、二人の個別の人間でありながら「一つ」であった。そして二人は裸であったが、自分自身にも相手を観ても恥を感じることはなかった。しかし善悪を知る木の実を食べてしまった後は、自分達が互いに裸であることを知り、イチジクの葉をつづり合わせて腰に巻き、自分達の恥を隠そうとした。皮肉なことに、善悪を知る木に「賢くなるには好ましい」という思い込みから生まれた要素を勝手に見出した人間は、表面的には何の変化もなかった自分達の肉体を見て、「恥」という感情を見出したのであった。そして自分達の間に入り込んできた「恥」は、主なる神の前で「恐れ」となり、自分達の「恥」を隠すだけでなく、自分達自身も主なる神の顔を避け、園の木の間に身を隠した。しかし彼らが作ったイチジクの葉の腰巻同様、園の中の「見て美しく、食べるに良いすべての木」も、神の前で「恥」と「恐れ」を隠すには何の役にも立たなかったのである。

 罪を犯すことによって「恥」が生まれ、分裂と不調和が派生し、「恐れ」によって神の臨在における居場所を失ってしまった。これは人間の現状の本質を示している。「弱さ」「恥」「劣等感」をあの手この手で隠そうとし、人との一体感を求めても孤独であり、与えられた環境と調和を得られず、絶えず居場所があるようで実は彷徨っている。「恥」と「恐れ」から目を逸らそうと、「美しいもの」「楽しいこと」「おいしいもの」「より賢く」「よりスマートに」「より幸せに」という探究の中に身を隠している。

 エデンの園の木の間に隠れていたアダムとエバを探し、「あなたはどこにいるのか」と問いかけた主なる神は、このような人間の魂の救いを求めて、御子キリストを世に遣わして下さった。彼は神の栄光の姿を脱ぎ捨て、人類の恥を代わりに背負い、罪人が造った荒削りの木に架けられ、全ての人の目の前で「犯罪人」「冒涜者」「詐欺師」「偽預言者」として曝され、民衆や弟子達にも見捨てられ、天使の守りも、父なる神の慰めの声も聞くことなく、たった一人で死んだ。

 園の木の間に身を隠すアダムに対して「あなたはどこにいるのか」と問いかけられた愛の神は、人となり、十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばなければいけなかった。この御子の叫びは、アダムに対する問いかけ以上に、私たちの罪の大きさを示している。