an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(6)エデンの園に置かれたアダム

創世記2:7-8;15-17

7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。

15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。

16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。 

創世記3:1-5

1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、

3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 

創世記3:22-23

22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。

 主なる神はアダムとエバを「エデンの園の中」で創造されなかった。彼らを造り、そして使命と守るべきルールを与え、「園の中」に連れて行ったのである。アダム自らが環境を造り出したのではなく、彼は神が備えた環境の管理者または統治者として導きいれられたのである。それはまた、神の命令に背いて罪を犯す選択肢が備えられた環境でもあった。なぜなら選択肢の無い自由は真の自由ではあり得ないし、自由意志に基づかない愛は真の愛ではないからである。

 神の霊を吹き込まれ、神のかたちに造られたアダムを、エデンの園のように罪を犯す選択肢を備えた環境に連れて行ったこと自体、栄光の御子キリストが受肉し、罪の中にある世界に中に遣わす神の計画の予型であった。全知の神が御自身のかたちに造ったアダムが罪を犯すことを知りながらもそのような環境に送り込んだのは、実は神の自己犠牲に基づく愛を暗示しているのである。

 そして誘惑に陥り罪を犯したアダムとエバがエデンの外へ追い出されて以来、アダムの子孫である人類は、「神のように善悪を知るようになった者が命の木の実に手を伸ばすことが決してできない世界」に生きていた。実際人間は、神の善悪の啓示である律法を知識として知っていたとしても、それを実行するだけの「神の命から来る力」を持ち合わせていないのである。

 しかしそのような「園の外の死の世界」に生きていた人間のところへ、「善悪を知る神の御子」が遣わされ、罪の報酬である死を人類の代わりに背負って下さった。御子自身がもたらした環境ではなかった。父なる神から与えられていた使命に背き、自分自身の権利と願いを追求する選択肢を備えた、危険に満ちた世界であった。それでも御子は父なる神の御心を行うことを選ばれたのである。

マタイ26:36-39

36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。

37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。

38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。

39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

 あらゆる祝福が与えられていたエデンの園の中で、アダムは神に背いて死を選んだ。悲しみと苦悩と恐れとに満ちたゲツセマネの園の中で、御子キリストは神に従って死を選ばれた。

 その御子の贖いの死によって、信じる者が命の木へ手を伸ばし、永遠の命を得ることができるようになったのである。

黙示録2:7

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。