an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(4)人間の創造

創世記1:26,27

26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 

  この人間創造の啓示の箇所も、三位一体の神を前提としなければ、十分解釈できない箇所である。

 26節

  1. 神は(エロヒーム 複数)
  2. 言われた(単数)
  3. われわれの(複数)
  4. かたち(像 単数)
  5. われわれ(複数)
  6. 似姿(単数)
  7. 造り(複数)

 27節

  1. 神は(複数)
  2. 自分のかたち(単数)
  3. 創造された(単数)

 この「造ろう」という個所が複数なので、神が天使に語りかけていた、という解釈をする立場もあるが、27節に「神は~創造された(単数)」と表現されているので、神と天使の共同作業的創造は成り立たない。

 神の「かたち」と和訳されている原語「ツェレム」は、「影」を意味する語根から派生したもの(「影」について、コロサイ2:17;へブル8:5;10:1を参照し、考察すると面白い)で、「像、流し込む型」という意味を持つ。神そのものではないが、神の「姿」を想像させるような存在、神の霊が「流し込まれる」ための特別な型としての存在。人間はそのような存在として、三位一体の神の内の「調和的創造」によって造られたのである。

 また「神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあるように、人間は「男と女」が共にいることで「神のかたち(単数)」をなすのであって、男だけや女だけではないのである。よく聖書の神は父なる神で男性的な神であるという意見を聞くが、短絡的な意見で、「男性的」という意味も聖書が啓示する意味とは異なるものである。

創世記2:7

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。

そこで人は生きた者となった。

 ここでは「創造」のプロセスが啓示されている。「主なる神(エロヒム)は土の塵で人を造り」とあるが、「造る」という原語は、「陶器師が粘土で形造る」ニュアンスがあり、前述の「流し込む型」というニュアンスと合わせて考えると大変興味深い。実際、人間の生物学的組成は、約96%の有機質(酸素63%、炭素20%、水素10%、窒素3%)や約4%の無機質(カルシウム、リン、硫黄など)であり、「土の塵から造られた」と言える程、地球上に存在する「ありふれた」ものである。

 ただそれでも、神の霊が「流し込まれ」「吹き入れられる」ため、神が特別に用意した「土の器」なのである。言い換えれば、神の栄光を表すために神自身が造られた器なのである。これを書くのは、「土の塵」という構成要素の「卑しさ」は、人間が自分の肉体を卑下したり、自分勝手に使うことの言い訳とはならないことを示すためである。

Ⅱコリント4:6-7

6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。

7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

  ここでもうひとつ非常に大切な点がある。上述したように、人間は土の塵から神のかたちに造られ、「命の息」(「命」は複数形である)を吹き入れられ、そして「生ける魂となった」(直訳)とある。神によって吹き込まれた息とは、神の霊のことで、生けるキリストを求めて(3)創造の前提 - an east windowにすでに書いたように、それは「御子の霊」つまり「自己犠牲に基づいた愛の霊」なのである。聖書が人間は「神のかたち」「神の似姿」に造られたと啓示する時、それは人間が本来「自己犠牲に基づいた愛の霊」によって、神と人を愛する存在として「御子のかたち」「御子の似姿に」造られたことを意味しているのである。

ローマ5:14

しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。

このアダムは、きたるべき者の型である。

 「来るべき者」とは、イエス・キリストを示している。

 だからこそ、使徒パウロはローマ人への手紙の中で、キリストの霊を受けた信仰者の生き方として、自分の体を生ける捧げものとして神の栄光のために捧げるように命じているのである。

ローマ12:1

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

 またこのことは、この後考察する「アダムとエバの罪」の本質が如何なるものかをより深く理解することを助けてくれるだろう。