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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(3)創造の前提

 創世記1:1

はじめに神は天と地とを創造された。

  生けるキリストを求めて(2)天地創造 - an east windowにおいて、神と和訳されている原語「エロヒム」が複数形であり、三位一体の神を啓示していることを書いた。実際、三位一体の神でなければ天地創造の前提する成り立たないのである。

 例えば、天地創造前の時間も空間も如何なる被造物のない条件で、どのように「神は愛である」という神の本質が成り立ちえようか。対象が無い時、愛は愛として成立しない。しかし唯一の神の中で「父なる神」と「御子なる神」そして「聖霊なる神」が、互いに愛の関係の中にいるならば、神の完全な自立性(自身において完全であり、他に依存しない性質)と愛が矛盾なく両立するのである。

 また神の全知と全能をもってして、愛という究極の存在意義、それ自体で成立しうる存在意義がなかったとしたら、全ての知識も能力も無意味ではないだろうか。聖書の啓示がそれを証明している。

Ⅰコリント13:1-3

1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。 

 神は愛する対象が「必要」だったので被造物を造ったのではない。もし自分の愛を「証明するため」に天地創造をしたのだったら、その愛は完全なものとは言えなかったろう。実際には、神は御自身の中に必要がなかったのに、被造物を造られた。むしろその創造が、罪による堕落と死の影響を受けることを知りながら、また何より「御子の死」をもたらすことを知りながらも創造をしたのである。それは純粋な愛ゆえである。

へブル9:14

永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。

  ここではキリストが「永遠の聖霊によって」御自身をささげたとある。キリストが十字架につけられ死んだのは、罪人たちが彼のことを憎んだからというものではなく、三位一体の神が天地創造、特に人間を創造すると計画した永遠の時の段階でもうすでに定められていたことなのである。だからキング・ジェームス訳が、黙示録13:8で「And all that dwell upon the earth shall worship him, whose names are not written in the book of life of the Lamb slain from the foundation of the world. (世の初めから屠られた子羊)」と訳しているのは、根拠が存在しないわけではない。勿論この啓示は、十字架の贖罪の死の唯一性を否定するものではなく、むしろ十字架の死は神の本質であることを示すものである。だからこそ、使徒ヨハネは、死から復活し天上の御座にいる永遠の栄光のイエス・キリストのうちに、十字架の死(「ほふられたとみえる小羊」)を見たのだ。

黙示録5:6

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。

 聖書の最初の啓示からすでに、神は自己犠牲の愛の神であり、その意味で御子を啓示しているのである。

へブル1:3

御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。