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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『羊を養うべきか、それともヤギを楽しませるべきか。』

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 スポルジョンが牧会していたロンドン・メトロポリタン・タベルナクルの牧師を1908年から1911年まで務めたブラウン牧師の説教である。本来ならば原文である英語から翻訳すべきだったが、原文を見つけることができなかったので、イタリア語からの重訳であるが、メッセージの本質的な部分を共有できればと思う。一世紀以上前のメッセージだが、現代の福音宣教の問題を見事に言い表しているのではないだろうか。

『羊を養うべきか、それともヤギを楽しませるべきか。』

 

マタイ23:32,33

32 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、

33 羊を右に、やぎを左におくであろう。

 

 「悪」が主の畑を荒しまわっている。あまりにも瞭然なので、(霊的に)近視になっている信者でも気が付くほどである。近年、このような悪は本当に凄まじいかたちで拡がった。まるでパン種がパン全体を膨らますように繁殖した。悪魔はある意味、策略を変えたのである。その狡猾を極め、教会にとって「人々を娯楽によって楽しませ、自分達のところに引き寄せることが自分達のミッションの一部である」と信じ込ませることに成功したのである。教会は初めは福音を伝えるという召命に従っていたが、徐々に自分達の証しの勢いを失い、時代の軽薄さと妥協し、それを正当化したのである。そして次にその軽薄さが自分達のところに棲み付くことを許容し、「大衆を獲得するため」という口実によって自分達のものとして利用することにしたのである。

  1. まず第一に、エンターテイメントやレクリエーションを求めることが主なる神の教会の働きであるとは、聖書の如何なるところにおいても読み取ることはできないことを明言したい。もしそれがキリスト者としての奉仕の一つならば、なぜキリストはそのことについて話さなかったのだろうか。なぜ弟子たちに『全世界に行き、福音を宣べ伝え、福音を喜んで受け入れない人々にはエンターテイメントを用意しなさい』と言わなかったのだろうか。しかし、そのような御言葉は見当たらない。私達の師の思いとは相容れないものではないか。御霊はそのことについて何も語っていない。昔の預言者たちは、人々を楽しませていたから迫害を受けていたのだろうか。それとも罪を告発してからだろうか。コンサートの企画者らは、殉教者のリストに入ることはない。
  2. 更に、人々をエンターテイメントによって楽しませることは、キリストや使徒達の教えや人生そのものと直に対立するものである。この世に対する新約時代の教会のアイデンティティーとはどのようなものか。「地の塩」であって、「砂糖菓子」ではない。主は御自身の教えの中に、心地よい、人を引きつけるような要素を巧妙に入れ込んだだろうか。もしそうだとしたら、確実に彼は今より人気があったことだろう。「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。」(ヨハネ6:66)という時、イエスはペテロに対して、「去って往く人々を追いかけ、『明日は違うタイプの礼拝、短くて人を引き付ける礼拝をします。説教は短めで、残りは楽しい時間を過ごしましょう。絶対に喜ばれるから説得をしなさい。急げ、ペテロよ。どうにかして人を集めなければいけない」と命じただろうか。否、そうではない。イエスは確かに罪びとに対する憐みを示し、彼らのために苦悩し、涙を流した。しかし彼らを娯楽をもって楽しませようとは決して考えなかったのである。『エンターテイメントの福音』の小さな跡一つでも見つけようと、新約聖書の手紙を隈なく調べても無駄であろう。それらの手紙の中にはむしろ、『彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触てはならない。』(Ⅱコリント6:17)娯楽やエンターテイメントに近づこうとするあらゆるものは、このメッセージを伴わないがゆえに、娯楽やエンターテイメントそのものになる。それに引き替え、主の教会は福音の力に全幅の信頼を寄せ、他の如何なる手段を利用しないが故、主の教会でありうるのである。ペテロとヨハネが福音宣教の故に牢獄に入れられた後、教会は祈ったが、「神よ、あなたのしもべらがレクリエーションを適切に賢く利用することによって、人々に私たちがどれだけ幸せであるかを示すことができるようしてください」とは言わなかった。彼らは、キリストを宣べ伝えることをやめなかったのである。彼らにはレクリエーションの時を企画する時間さえなかったのである。迫害によって方々に散りながら、福音を宣べ伝えたのである。(福音の力によって)世界をひっくりかえしてしまったのである。これは現代の教会との唯一の違いである!
  3.  最後に、エンターテイメントや娯楽は、望む効果に到達できないのである。コンサートによって魂の安息を得たという「疲れ、重荷を負っていた」人々はどこにいるのだろうか。広場の人形芝居のおかげで罪の拘束の鎖から解放された全てのアルコール中毒者に立ちあがってもらおう。そんな人々はいないのである。娯楽の福音は、真の回心者を生み出すことは決してできないのである。

 

 今日の教会の本当の必要とは、健全な聖書的教えと一体となった真正なる霊性を経験することであり、それによって全ての信仰者が天的な熱意に燃え上がることである。

  ここ最近イタリアにおいても、シンプルな福音宣教に代わりに、コンサートや映画上映、人形劇、パントマイムなどが「伝道」という目的のために導入されるようになった。それぞれの背景や状況を無視し、一纏めにして否定することはできないと思うが、ブラウン牧師の忠告を軽く扱えるほど現代の教会が健全だとも思えない。

 現代人は様々な情報や経験を持っている分、より深く真実な霊的糧に飢えているのではないだろうか。生けるキリストとの交わりにおいてでしか経験することができないほど、深遠な糧に。それはつまり「主イエス・キリストの羊である私たちは、何を糧にして生きているか」という、信仰者に対する忠告であり、チャレンジでもある。人は自分が経験したものにおいてしか、他人に提供することはできないからである。