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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

暗闇に輝く大いなる光

救いへの一歩

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イザヤ1:1

アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻。

ミカ1:1

ユダの王ヨタム、アハズおよびヒゼキヤの世に、モレシテびとミカが、サマリヤとエルサレムについて示された主の言葉。 

  イザヤとミカは、共に紀元前8世紀頃、神の御言葉を民に取り次ぐ務めを遂行した預言者であった。同じ神に仕え、同時代に生き、同じ民に対して語っていたにもかかわらず、この二人のメッセージはただ単に似たようなことを繰り返し語っているものではなかった。勿論、その本質的内容は共通するもので、似た表現を使っている箇所があることからも、二人の預言者はお互いの働きを知り、尊重し、共有していたが想像できる。

イザヤ2:2-4

2 終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、

3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。

4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。 

ミカ4:1-3

1 末の日になって、主の家の山はもろもろの山のかしらとして堅く立てられ、もろもろの峰よりも高くあげられ、もろもろの民はこれに流れくる。

2 多くの国民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。彼はその道をわれわれに教え、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。

3 彼は多くの民の間をさばき、遠い所まで強い国々のために仲裁される。そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかってつるぎをあげず、再び戦いのことを学ばない。 

 このような共通性は十分理解できるのだが、何より驚くのは、この二人が書き残したキリストに関する預言である。人知を超える神の知恵によって、まるで隣合うパズルのピースのように完璧な補完的調和関係を持っているのである。実際に読んで見よう。

イザヤ8:22;9:1-2;6-7

22 また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。

1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。

2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。

6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。 

7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。 

ミカ5:1-4

1 今あなたは壁でとりまかれている。敵はわれわれを攻め囲み、つえをもってイスラエルのつかさのほおを撃つ。

2 しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。

3 それゆえ、産婦の産みおとす時まで、主は彼らを渡しおかれる。その後その兄弟たちの残れる者はイスラエルの子らのもとに帰る。

4 彼は主の力により、その神、主の名の威光により、立ってその群れを養い、彼らを安らかにおらせる。今、彼は大いなる者となって、地の果にまで及ぶからである。 

 ミカ書の預言が「イスラエルを治める者」、つまりメシアがベツレヘムから生まれると預言しているのに対して、イザヤ書はそのメシヤの誕生について語っているものの、「光」つまりその公な顕現が「異邦人のガリラヤ」において啓示されることを預言しているのである。

 これは実際に七百年後にイエス・キリストがベツレヘムで生まれ、そしてその三十年後にガリラヤから公の宣教活動を始めたことによって完全に成就した。

ルカ2:4-7

4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

5 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。

6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、

7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。 

マタイ4:12-17

12 さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。

13 そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。

14 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。

15 「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、

16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。

17 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。  

  メシアの到来について語っているのにかかわらず預言者イザヤが見た「光」は、東方の博士たちをベツレヘムへ導いた星の光でも、野宿していた羊飼いたちを照らした主の栄光の光でもなかった。引用した箇所でイザヤが受けた光の啓示は、キリストの誕生を照らす光ではなく、「悔い改めによる救いの福音宣教の光」だったのである。

 この時期、所謂「キリスト教文化圏内」では「飼い葉おけの中の新生児」にスポットライトが当たっていた。しかしそのようなスポットライトから遠く離れた死の陰の暗闇の中にも、「悔い改めよ、天国は近づいた」というイエス・キリストの福音の真の光が輝いたことを信じたい。