an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「何を知るか」「どう知るか」

Ⅰコリント8:1-3

1 偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。

2 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。

3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。 

 二節にある「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。」と訳されて箇所は、「知るべきことを知らない」という意味の他に、「どう知るべきかを知らない」とも訳せる。実際、塚本訳はそのようなニュアンスで訳出されていて、岩波委員会訳は回りくどい表現だが両方のニュアンスを統合して訳している。

(塚本訳)もしある人が(愛がなくて)何か知っていると思うならば、彼は知らねばならぬようにはまだ知っていないのである。

(岩波訳)もし誰かが、自分は何かを知ったと思うなら、その人はまだ、〔本来〕知るべき仕方では何ごとをも知ってはいない。

  イタリア語訳の主要な4つのバージョンは、いずれも「どう知るべきかを知らない」と訳している。

(Diodati)Ora, se alcuno si pensa saper qualche cosa, non sa ancora nulla, come si convien sapere. 

(RV) Se alcuno si pensa di conoscer qualcosa, egli non conosce ancora come si deve conoscere; 

(NRV) Se qualcuno pensa di conoscere qualcosa, non sa ancora come si deve conoscere; 

(CEI)Se alcuno crede di sapere qualche cosa, non ha ancora imparato come bisogna sapere. 

  つまり「WHAT」と「HOW」のニュアンスの違いである。これは大変意味深い。「何を知るか」も大事だが、それと同時に、否それ以上に「どう知るか」が重要だといっているのである。

 確かに使徒パウロが前節に書いているように、「知識は人を誇らせる」。他人が知らないと思っていることの知識をもつと、心の中に「優越感」や「自尊心」が生まれることは誰でも自分のうちに認める傾向である。そして聖書が正しい知識を得ることを命じている以上、やはり大事なことは「どう知るか」なのではないだろうか。

 自分の観点からしたら全く間違っていると思う知識を声高に叫ぶ多くの人に会い、「正統的教義」の知識に胡坐をかく自分に何度も繰り返し会った。自分の知識を誇り他人を卑下する人の意見を見聞きし、その人を卑下する自分がいることも知っている。私たち罪びとは、「何を知るか」にも「どう知るか」にも、神の恵みと憐みが必要なのではないだろうか。

しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。

 「その人は神に知られている」。不測の困難や思い通りに解決しない事態が、神に対する畏敬の念を私に与えるのならば、それは「何を知るべきか」だけでなく「どう知るべきか」を私に教えてくれる「聖霊によるレッスン」なのだろう。

詩篇111:10

主を恐れることは知恵のはじめである。

これを行う者はみな良き悟りを得る。

主の誉は、とこしえに、うせることはない。

箴言9:10

主を恐れることは知恵のもとである、

聖なる者を知ることは、悟りである。