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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

真のナジル人(1)ヨセフ

聖書による検証 聖別(キリストとの交わり)

ナザレの謎(2)ナザレ村出身? - an east window

ナザレの謎(3)ナザレ人とナジル人 - an east window

ナザレの謎(4)道、そして真理 - an east window

においてナジル人について触れたが、調べていくうちにもう一つ面白い要素を発見したので共有してみたい。

創世記49:22-26

22 ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。

23 射る者は彼を激しく攻め、彼を射、彼をいたく悩ました。

24 しかし彼の弓はなお強く、彼の腕は素早い。これはヤコブの全能者の手により、イスラエルの岩なる牧者の名により、

25 あなたを助ける父の神により、また上なる天の祝福、下に横たわる淵の祝福、乳ぶさと胎の祝福をもって、あなたを恵まれる全能者による。

26 あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する。

 この個所は、族長ヤコブが地上の人生を終える前に自分の子らを集め、最後の祝福の言葉、まさしく預言的な言葉を語ったものである。ユダに対する祝福の言葉(8-12節)と同様、 ヨセフに対してヤコブは他の子に対するよりも多くの言葉を費やし、非常に意味深い預言を残している。ユダに対する預言が、キリストの絶対的主権を預言しているものならば、ヨセフのそれはキリストの苦難と永遠の霊による復活の祝福を啓示している。そのような意味において、ユダへの預言とヨセフへの預言は、キリストに対する預言として一つのものと考えて読むと、より総合的な解釈が与えられると思う。

 今回、特に驚いたのは最後の節である。「これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する」という聖句の中に、「君たる者」と訳されている単語があるが、その原語は「NZIR」で、「ナジル人」と邦訳されている単語の同じなのである。ここで各種の翻訳を列挙してみたい。

  • Separate(KJ,American Standard,Bible in basic english, Darby's, Noah Webstar, Would English, Young's Literal Bible)
  • Nazarei (Vulgate ラテン語)
  • Nazarite (Douay Reheims Bible)

また日本語訳は、以下の通りである。

  • 別になりたる者(文語)
  • 選び出された者(新共同訳、新改訳)
  • 君たる者(口語)

 モーセの律法によって「ナジル人に関する戒律」が啓示される四百年以上前のヤコブの預言によって、「NZIR」の本質的・霊的な意味が啓示されているのである。

 モーセの律法の中には、「ナジル人に関する戒律」が以下のように書かれている。

民数記6:1-21

1 主はまたモーセに言われた、

2 「イスラエルの人々に言いなさい、『男または女が、特に誓いを立て、ナジルびととなる誓願をして、身を主に聖別する時は、

3 ぶどう酒と濃い酒を断ち、ぶどう酒の酢となったもの、濃い酒の酢となったものを飲まず、また、ぶどうの汁を飲まず、また生でも干したものでも、ぶどうを食べてはならない。

4 ナジルびとである間は、すべて、ぶどうの木からできるものは、種も皮も食べてはならない。

5 また、ナジルびとたる誓願を立てている間は、すべて、かみそりを頭に当ててはならない。身を主に聖別した日数の満ちるまで、彼は聖なるものであるから、髪の毛をのばしておかなければならない。

6 身を主に聖別している間は、すべて死体に近づいてはならない。

7 父母、兄弟、姉妹が死んだ時でも、そのために身を汚してはならない。神に聖別したしるしが、頭にあるからである。

8 彼はナジルびとである間は、すべて主の聖なる者である。

9 もし人がはからずも彼のかたわらに死んで、彼の聖別した頭を汚したならば、彼は身を清める日に、頭をそらなければならない。すなわち、七日目にそれをそらなければならない。

10 そして八日目に山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を携えて、会見の幕屋の入口におる祭司の所に行かなければならない。

11 祭司はその一羽を罪祭に、一羽を燔祭にささげて、彼が死体によって得た罪を彼のためにあがない、その日に彼の頭を聖別しなければならない。

12 彼はまたナジルびとたる日の数を、改めて主に聖別し、一歳の雄の小羊を携えてきて、愆祭としなければならない。それ以前の日は、彼がその聖別を汚したので、無効になるであろう。

13 これがナジルびとの律法である。聖別の日数が満ちた時は、その人を会見の幕屋の入口に連れてこなければならない。

14 そしてその人は供え物を主にささげなければならない。すなわち、一歳の雄の小羊の全きもの一頭を燔祭とし、一歳の雌の小羊の全きもの一頭を罪祭とし、雄羊の全きもの一頭を酬恩祭とし、

15 また種入れぬパンの一かご、油を混ぜて作った麦粉の菓子、油を塗った種入れぬ煎餅、および素祭と灌祭を携えてこなければならない。

16 祭司はこれを主の前に携えてきて、その罪祭と燔祭とをささげ、

17 また雄羊を種入れぬパンの一かごと共に、酬恩祭の犠牲として、主にささげなければならない。祭司はまたその素祭と灌祭をもささげなければならない。

18 そのナジルびとは会見の幕屋の入口で、聖別した頭をそり、その聖別した頭の髪を取って、これを酬恩祭の犠牲の下にある火の上に置かなければならない。

19 祭司はその雄羊の肩の煮えたものと、かごから取った種入れぬ菓子一つと、種入れぬ煎餅一つを取って、これをナジルびとが、その聖別した頭をそった後、その手に授け、

20 祭司は主の前でこれを揺り動かして揺祭としなければならない。これは聖なる物であって、その揺り動かした胸と、ささげたももと共に、祭司に帰するであろう。こうして後、そのナジルびとは、ぶどう酒を飲むことができる。

21 これは誓願をするナジルびとと、そのナジルびとたる事のために、主にささげる彼の供え物についての律法である。このほかにその力の及ぶ物をささげることができる。すなわち、彼はその誓う誓願のように、ナジルびとの律法にしたがって行わなければならない』」。 

 聖書には、ヨセフがぶどうの木からとれた飲み物や食べ物を口にしなかったとも、髪を切らずに伸ばしていたとも書かれていない。またそのような生き方をヨセフの子孫がしなければならなかったとも啓示していない。それでもヨセフは本質的に意味で「NZIR」、つまり「神の計画によって選び出され、分離され、兄弟たちの君たる者」であった。そしてこの啓示は、聖書がイエス・キリストについて長い髪を持っていたとは書いておらず、またぶどうの木からとれた飲み物や食べ物を口にしなかったどころか、「罪人たちを迎えて一緒に食事をし」(ルカ15:2)、「食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」と侮蔑されていた(ルカ7:34)にもかかわらず、それでも「NZIR、神の計画によって選び出され、分離され、兄弟たちの君たる者」であることを示しているのである。

 またこの啓示は、クリスチャンが律法に基づいて誓願し、髪を切らず、ぶどうの木からとれた飲み物や食べ物を口にしないことは本質的なことではなく、むしろ自分が神の永遠の計画によってこの世から選ばれ、キリストの死と共に分離され、キリストの主権の下に身を寄せる者となったことを信じ、感謝しながらそのように生きていくことが、「ナザレ人のイエス」に属する者として重要だということを示している。

 先日すでに書いたように、現代のイスラエル人がクリスチャンのことを「Notsri (単数形 Notzirim(複数形)」と呼び、アラビア語やシリア語でも「NZIR」から派生したと想定される「Nasrani(シリア語)」 「Naṣrānī(アラビア語)」という呼称を使っている事実は、キリストに属する者と自負する私達一人ひとりが「襟を正す」のに有益ではないだろうか。

 

(2)へ続く